2005年 05月 24日
米韓の新興ジャーナリズムが日本に根付かない理由 |
韓国オーマイニュースのような市民記者ジャーナリズムも米国のブログジャーナリズムも、近い将来に日本で一定の成果を出すことはあまり期待できないと書いた。
その理由を説明したい。
まず韓国の市民記者ジャーナリズム。韓国オーマイニュースをみても分かるように、サイトの造りは既存メディアのニュースサイトそのもの。記事の書き手は、自分たちは市民記者であるという認識で記事を書く。
昔からある仕組みを使って、新しいことをしようとしているわけだ。なぜ既存報道機関の、ニュースサイトの枠組みをそのまま使おうというのか。それは既存の報道機関、ニュースサイトに対する不満、不信が根底にあるからではないだろうか。
そうした不満、不信は、日本ではどれだけ大きいのだろう。先進国の新聞に対する信頼度を比較した調査結果などを見たこともあるが、「信頼度」という概念を客観的に測定することは非常に困難なので、調査結果を鵜呑みにはできないと思う。そこで、市民記者ジャーナリズムがどの程度の動きになるのかを見て、日本国内での既存メディアに対する不満、不信感を測る指標にしたいと考えていた。
しかしこれまでのところ日本インターネット新聞のJANJANにしろ、ライブドアのPJニュースにしろ、設立されてある程度の時間が経つのに、今だに社会へ大きな影響力を行使できていないのが現状。日本の既存メディアに対する不満や不信感は韓国ほど大きくない、と考えていいのではなかろうかと思い始めている。つまり、既存メディアに対する不満や不信感を原動力にした新しい報道機関は、予測できる程度の近未来において日本で力を持つようにはならないと思う。
一方、米国のブログジャーナリズムの原動力の根底には、既存メディアへの不満、不信に加え、米国人の情報発信に対する欲望があると思う。ブロガーの多くは自分たちのことを市民記者とは思っていない。自分のブログがジャーナリズムであると主張する人もそう多くない。それでもブログで情報発信するのは、日本人に比べて「物を言いたい」という欲求が強いからではないだろうか。
わたしは人生の半分近くを米国で暮らしたのだが、米国人は日本人に比べ発言欲求が確かに強いと実感している。米国人の発言要求の強さは、議論をする、自分の主張を発表する、ということの大事さを幼いころから教育の場で徹底的に教え込まれてきたからだろう。そういった米国人の国民性がブログという個人の情報発信ツールにぴったりはまったわけだ。
またそれとは別に、米国人の職業人生に対する考え方が、価値の高い専門情報をブログに書く原動力になっている、とわたしは考えている。日本人のようにできれば1つの会社を勤め上げようと考えている米国人に、わたしは出会ったことがない。上昇志向のある人は、どのような会社で経験を積み、最終的にはどのような技能を身に付けるべきか、ということを常に考えている。基本的に転職を繰り返すことで、キャリアアップを図るわけだ。
そして普段から自分の専門分野のことをブログに記述しておくことで自分自身を社会に、次の企業に、アピールしようとしているのだと思う。専門性の高いブログは、転職の際に非常に有効な「履歴書」になる。これが専門情報ブログが米国に数多く存在する最大の理由だと思う。
日本でも転職率が高まっているが、日本人の転職は「仕事が面白くなくなってきたから」「給料が下がってきたから」などといった後ろ向きの動機が中心ではないだろうか。できればこのままこの会社にいたいのだが仕方なく転職する、という形だ。米国人のように「今の職場に不満はないが次の技能を身につけるために」「もっと給料を取れる自分になりたいから」という前向きな理由で転職する人はまだまだ少ないように思う。
できる限り今の職場でうまくやっていきたいと考えているので、会社の目を気にしてまで自分の専門分野の情報を発信していこうとは思わない。FPNというブログサイトがビジネスに役立つ情報を流すブログの人気投票を行ったことがある。投票の結果、ビジネス情報の人気ブログを運営するのは個人事業主がほとんどで、会社員の運営するブログは数えるほどしかなかった。
つまり個人の情報発信欲求を原動力にした専門情報からなる米国のようなブログジャーナリズムも、日本では根付きそうにないように思う。
またコメント欄のJ考現学さんのご指摘のように、韓国、米国ともに政権交代が比較的頻繁に行われるという事情も関係するのだろう。政権交代が比較的容易であれば、国民は真剣に政治問題を議論する。もともと議論をする土壌があったところにネットという議論に最適なツールが登場し、議論型のジャーナリズムが一気に開花したとも考えられる。
では日本の21世紀型のジャーナリズムはどのようなものになる可能性があるのだろうか。別のエントリーで考えてみたい。
追記:コメント欄にいただいたJ考現学さんのご指摘を本文に追加しました。
その理由を説明したい。
まず韓国の市民記者ジャーナリズム。韓国オーマイニュースをみても分かるように、サイトの造りは既存メディアのニュースサイトそのもの。記事の書き手は、自分たちは市民記者であるという認識で記事を書く。
昔からある仕組みを使って、新しいことをしようとしているわけだ。なぜ既存報道機関の、ニュースサイトの枠組みをそのまま使おうというのか。それは既存の報道機関、ニュースサイトに対する不満、不信が根底にあるからではないだろうか。
そうした不満、不信は、日本ではどれだけ大きいのだろう。先進国の新聞に対する信頼度を比較した調査結果などを見たこともあるが、「信頼度」という概念を客観的に測定することは非常に困難なので、調査結果を鵜呑みにはできないと思う。そこで、市民記者ジャーナリズムがどの程度の動きになるのかを見て、日本国内での既存メディアに対する不満、不信感を測る指標にしたいと考えていた。
しかしこれまでのところ日本インターネット新聞のJANJANにしろ、ライブドアのPJニュースにしろ、設立されてある程度の時間が経つのに、今だに社会へ大きな影響力を行使できていないのが現状。日本の既存メディアに対する不満や不信感は韓国ほど大きくない、と考えていいのではなかろうかと思い始めている。つまり、既存メディアに対する不満や不信感を原動力にした新しい報道機関は、予測できる程度の近未来において日本で力を持つようにはならないと思う。
一方、米国のブログジャーナリズムの原動力の根底には、既存メディアへの不満、不信に加え、米国人の情報発信に対する欲望があると思う。ブロガーの多くは自分たちのことを市民記者とは思っていない。自分のブログがジャーナリズムであると主張する人もそう多くない。それでもブログで情報発信するのは、日本人に比べて「物を言いたい」という欲求が強いからではないだろうか。
わたしは人生の半分近くを米国で暮らしたのだが、米国人は日本人に比べ発言欲求が確かに強いと実感している。米国人の発言要求の強さは、議論をする、自分の主張を発表する、ということの大事さを幼いころから教育の場で徹底的に教え込まれてきたからだろう。そういった米国人の国民性がブログという個人の情報発信ツールにぴったりはまったわけだ。
またそれとは別に、米国人の職業人生に対する考え方が、価値の高い専門情報をブログに書く原動力になっている、とわたしは考えている。日本人のようにできれば1つの会社を勤め上げようと考えている米国人に、わたしは出会ったことがない。上昇志向のある人は、どのような会社で経験を積み、最終的にはどのような技能を身に付けるべきか、ということを常に考えている。基本的に転職を繰り返すことで、キャリアアップを図るわけだ。
そして普段から自分の専門分野のことをブログに記述しておくことで自分自身を社会に、次の企業に、アピールしようとしているのだと思う。専門性の高いブログは、転職の際に非常に有効な「履歴書」になる。これが専門情報ブログが米国に数多く存在する最大の理由だと思う。
日本でも転職率が高まっているが、日本人の転職は「仕事が面白くなくなってきたから」「給料が下がってきたから」などといった後ろ向きの動機が中心ではないだろうか。できればこのままこの会社にいたいのだが仕方なく転職する、という形だ。米国人のように「今の職場に不満はないが次の技能を身につけるために」「もっと給料を取れる自分になりたいから」という前向きな理由で転職する人はまだまだ少ないように思う。
できる限り今の職場でうまくやっていきたいと考えているので、会社の目を気にしてまで自分の専門分野の情報を発信していこうとは思わない。FPNというブログサイトがビジネスに役立つ情報を流すブログの人気投票を行ったことがある。投票の結果、ビジネス情報の人気ブログを運営するのは個人事業主がほとんどで、会社員の運営するブログは数えるほどしかなかった。
つまり個人の情報発信欲求を原動力にした専門情報からなる米国のようなブログジャーナリズムも、日本では根付きそうにないように思う。
またコメント欄のJ考現学さんのご指摘のように、韓国、米国ともに政権交代が比較的頻繁に行われるという事情も関係するのだろう。政権交代が比較的容易であれば、国民は真剣に政治問題を議論する。もともと議論をする土壌があったところにネットという議論に最適なツールが登場し、議論型のジャーナリズムが一気に開花したとも考えられる。
では日本の21世紀型のジャーナリズムはどのようなものになる可能性があるのだろうか。別のエントリーで考えてみたい。
追記:コメント欄にいただいたJ考現学さんのご指摘を本文に追加しました。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-05-24 02:19