2005年 10月 12日
移り変わるジャーナリズムの定義 |
▼移り変わるジャーナリズムの定義
新しいジャーナリズムの形について議論する前に、もう1つやっておきたいことがある。過去のジャーナリズムの定義の再確認だ。
ジャーナリズムは、いつ始まったんだろう。「マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心」(林香里著、新曜社)によると、ジャーナリズムの起源について近代に始まった公衆の言論活動が出発点だという見解が有力だという。ただ時期は同じものの、出発点の形が異なる学説が2つあるようだ。1つは17世紀の半ばのビューリタン革命の中での政治運動を目的としたパンフレットなどの媒体上の言論活動がジャーナリズムの原型であるとする説。もう1つは「ジャーナル(日誌)」が語源であることから、市民が日々記していた日常の記録が出発点であるという説だ。
どちらにせよ、現在のジャーナリズムの定義とは大きく異なるような気がする。現在のジャーナリズムの定義はどのようなものなのだろう。
全国紙の記者が運営しているとみられるブログ「J考現学」では「力でねじ伏せようとする権力に対して、公明公正な議論で対抗すること」という定義を使っていた。同じく全国紙記者のブログ「ブログ時評」は、「今言うべきことを言うこと」という定義を使っていた。どちらもなかなかすばらしい定義だが、より一般的な定義とは少し異なるかもしれない。
国語辞典は次のように定義している。「新聞・雑誌・テレビ・ラジオなど時事的な問題の報道・解説を行う組織や人の総体。また、それを通じて行われる活動」。
この定義だと、ジャーナリズムを実践できるのは報道機関に所属している記者だけのような印象を受ける。報道機関の記者と同等の仕事をするフリーの立場の人間の仕事も例外としてこの定義に含めてもいいのかもしれない。
恐らくこの辺りが、一般の人々が抱くジャーナリズムの定義なのではなかろうか。
わたしのブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」上では定義がさらに異なっている。わたしのブログ上では、市民参加型ジャーナリズムの可能性を議論しているので、読者との議論の中でもジャーナリズムの定義は当然もう少し拡大されて、アマチュアまでも含んだものとして認識されていると思う。すなわち、報道機関に所属するジャーナリストやフリーのジャーナリストと同等の仕事をするアマチュアもジャーナリストであるし、そうしたアマチュアジャーナリストが実践するものもジャーナリズムの1つである、という定義をみんなで共有して議論している。
それでも次のようなコメントが寄せられることがある。「足で情報を取ってこなければジャーナリズムではない」「新聞記事を論評する程度のことはジャーナリズムではない」などなどなどだ。別の言い方に変えれば、ジャーナリストは人の取ってきた情報についてああだこうだ言うのではなく、自分の足で人に直接会って情報をとってくるべきだ、ということになると思う。
つまり、職業的にはフリーだけでなくアマチュアまで含めてもいいが、自分で取材しなければジャーナリズムではないという考え方だ。
ただそう考える人は少数派で、多くの人は「プロのジャーナリストの中にもあまり取材せずに評論を活動の中心にしている人もいるので、評論だけのブログもジャーナリズムと認めてもいいのではないか」と認識しているように思う。
つまりわたしのブログ周辺での議論の中の定義は、一般的なジャーナリズムの定義より少しは拡大された辺りをうろうろしているのだと思う。
考えてみれば、これはかなり画期的なことではなかろか。ジャーナリズムの定義が今また変わろうとしているのだ。
20世紀は、メディア企業が情報発信手段を独占し、その結果ジャーナリズムさえも独占した。ところが21世紀になり、われわれ個人はインターネットという情報発信手段を手にした。メディア企業は情報発信手段を独占できなくなったのだ。
国内には約2万人の新聞記者がいるといわれる。その100倍ほどの人間がブログで情報を発信し始めた。その1000倍以上の人間がカメラのついた携帯電話を持って日本中を歩き回っている。
人々はたまたま遭遇した事件、事故の現場で写真を取り、それをネット上に掲載し始めた。またブログを使ってその事件、事故について論評し始めた。
21世紀に入ってまだ数年。まだまだ既存メディア企業が果たす役割は大きい。しかしネットというツールを獲得した一般市民は、プロのジャーナリズムの領域を徐々に浸食していくことだろう。それに併せてメディア企業も自分たちのジャーナリズムのあり方を少しずつ変えていくことになると思う。
今のところは、プロのジャーナリストの領域は残るような気がする。しかしそれとて確信ではない。今から100年後のジャーナリズムの形を正確に言い当てることなど不可能ではないだろうか。
形を予想できないのなら、定義付けすること自体、無意味である。ただ議論を進めるための便宜上の定義は必要だろう。便宜上の定義は、今のような狭い定義では役に立たない。より広い定義でなければならない。そこで次のように定義しておいて話を前に進めたい。「21世紀のジャーナリズムとは社会をよくしよう、真実をつかもうとする言論活動のことである」と。21世紀のジャーナリズムの定義は、17世紀のそれに戻ろうとしているのかもしれない。
ジャーナリズムの定義は、gooの三省堂提供「大辞林 第二版」から
林香里 2002年「マスメディアの周縁、ジャーナリズムの核心」新曜社 P16
著者注:間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。参考「本を書きます」
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by tsuruaki_yukawa
| 2005-10-12 18:07
| 本の原稿