2006年 01月 02日
ジャーナリズムは死語に |
▼日本の参加型の近未来形
日本の参加型ジャーナリズムの近未来像は、市民記者サイトといった1つのサイトの中でだけ盛り上がるという形は取らないだろうという予測は既に述べた。端緒はどこであってもいい。JANJANであっても、ツカサネットであっても、ブログであっても、テレビのニュースであってもいい。どこかでだれかが発信した情報がネット上の口コミで広がり始める。その広がり具合をブログ検索エンジンなどのネット上の話題を見つけ出す仕組みが察知する。独特の計算方式を使ってネット上で話題になっているウェブページをランク付けする「話題の.jp」や、人気ブログ検索サービス「テクノラティ」の検索キーワードランキングなどは、ネット上で何が話題になっているのかを調べる道具として既に存在している。今後こうした仕組みはさらに技術改良が加えられ、使い勝手や性能が向上する方向にあることは間違いないだろう。
こうした仕組みを使って伝搬し始めた情報を、既存メディアや、マスメディア並みの影響力を持つブログやサイトが取り上げることによって、その情報はさらに拡散することになる。
またマスメディアや有力ブログ、サイトが取り上げない情報であっても、その情報を必要とする人たちの間での情報交換、議論は長く続くことになるだろう。
参加型ジャーナリズムの情報伝搬の基本的な形はこのようなものになると思う。
▼内部告発、政治情報の充実
この基本形に加えて、今後の変化を予感させる幾つかの兆候は既に見え始めている。
1つの兆候は、内部告発の増加である。1980年代、90年代ころからだろうか。談合、情報隠蔽など、これまでは業界の常識、必要悪とみなされた商慣習が、明るみに引きずり出されて裁かれることが増え始めた。社会人としての常識よりも、企業の社員、業界のメンバーとしての考え方を優先することが、犯罪として取り扱われ出したのだ。それに加えて年功序列、終身雇用という商慣習も崩れ始めた。その結果、会社や業界に対する忠誠心も崩れ始めた。それに加えてインターネットという情報発信ツールが広く普及し始めた。内部告発を誘発する環境が整ったわけだ。
もちろん内部告発が増えるといっても調査報道が不要になるわけではない。既存メディア関係者は「情報流通量が増えてもゴミのような情報が増えるだけ。必要な情報を取ってくるという仕事はなくならない」と強調したがるが、それはその通り。調査報道に対するニーズは、減るどころか、かえって高まるだろう。
もう1つの兆候は、政治に関する情報の増加だ。どの政党がどのような公約をどのように実現したか、していないか。どの議員がどのような発言を行い、どのような行動を取ってきたか。こうした情報を分かりやすく表示しようという動きがポータルなどのサイトで活発になり始めた。公示後のネット上での情報を規制する公職選挙法も改正されることになるのはまず間違いない。今後はより多くの政治関連情報が非常に分かりやすい形でネット上に掲載されることになるだろう。有権者は、自分の投じた一票がどのように政治を変えるのかをより明白に理解できるようになる。地方自治に関する情報を取り扱う地域ポータルも出てくることだろう。
政治に対するしらけムードは、「政治はむつかしい」「どうせ自分の一票では何も変わらない」という気持ちが根底にある。政治を分かりやすくし、一票の効果を見える形にすれば、政治に対する関心は高まるだろう。
▼NPO、PGO、一般市民に期待
もう1つの兆候は、NPO、NGO関係者の情報発信の増加だ。日本財団は2005年に、ウェブサイトをブログ形式に変更した「canpan」というサイトをオープンした。ブログホスティングにも乗り出しており、だれでも無料でcanpan上でブログを開設できるようになっている。寄付金に頼る団体も多いが、ブログの内容がいいから寄付金が集まるということも今後増えてくるだろう。日々更新するブログ上でうそを書き続けることは容易なことではない。ブログにはどうしても、書き手の「人となり」がにじみ出るものだと思う。募金集めのためのパンフレットなどよりも、ブログを通じてその団体の活動内容や趣旨といったものが分かるようになると思われるからだ。
NPO、NGO関係者は、お金儲けよりも日本をよくしたい、社会をよくしたいと考える人たちと言っていいだろう。わたしはNPO、NGO関係者の若者を個人的に何人か知っている。彼らは非常に優秀で、まるでベンチャー企業を立ち上げる感覚でNPO団体を立ち上げている。事実、そのうちの一人はNPO法人を立ち上げる前には大学時代の友人たちとベンチャー企業の立ち上げに参画した経験があるという。今回ベンチャー企業ではなくNPO法人にした理由は、お金儲けより社会をよくしたいという思いのほうが強いからだという。彼の大学の友人には、ほかにもNPO法人を立ち上げた人が何人かいるという。彼らがニート世代といわれる世代に属しているとは信じられないほど、使命感を持った若者たちだ。
これからのジャーナリズムの中心になるのは、社会をよくしたいという思いをベースにした一般の人たちの言論活動だと思う。非常に青臭い議論のように思われるかもしれないが、わたしはそう信じている。日本国内でこう主張すると、「価値のある情報に対して報酬が支払われない限り、参加型ジャーナリズムは成立しない」という反論を必ず受ける。40人ほど集まったある勉強会でも、わたし以外の全員が「対価なしに有益な情報は出てこない」という意見だった。
米国の参加型ジャーナリズムの研究者であるサンノゼ・マーキュリー・ニューズの元コラムニストのダン・ギルモアさんが来日したときに、このあたりの議論を仕掛けてみた。ギルモアさんもわたし同様に、社会をよくしたいと思う人たちの情報発信で参加型ジャーナリズムが成り立つと考えていた。わたしが「日本人の多くはそう考えていない。ろいろな人と議論してきたが、多くの人は対価を支払わない限り有益な情報は出てこないと考えている」と言うと、ギルモアさんは首を傾げた。「本当にそうだろうか。自分の子供たちの世代のために、少しでもいい社会を作りたいという気持ちは、日本人にはないと言うのか」。そんなことはないはずだと、ギルモアさんを言った。
確かにそう言われればそうかもしれない。「みんなで社会をよくしましょう」という青臭い議論には気恥ずかしくて賛同しかねる人たちの心の中にも、「子供たちにいい社会を残したい」という気持ちは絶対にあるはずだ。日本人が米国人に比べて、冷徹で利己主義だとは思えない。日本でも、社会をよくしたいという思いをベースにした言論活動がこれからのジャーナリズムの主流になるはずだと思う。
高邁な思想を持って添加国家を論じることだけがジャーナリズムではなくなる。文章としての質の高さが必要条件のジャーナリズムの時代は終わろうとしている。これからは高邁な思想を持たなくてもいい。身の周りのことを論じるだけでもいい。文章がへたでもいいと思う。「社会をよくしたい」という思いの言論活動はすべて新しいジャーナリズムの範疇に加えてもいいのではなかろうか。
NPOやNGOだけではない。「子供のために公園をもっと作ってほしい」という母親の主張もジャーナリズムになるのだと思う。そしてインターネットは同じような思いを持つ人たちを結びつける。これがネット普及前と普及後の社会の異なるところだ。「公園がほしい」と思う人たちがつながりはじめ、1つの運動になっていく。そして行政を動かすようになるのだろう。「社会をよくしたい」という思いを持つ人ならだれでもが、ジャーナリズムを実践できるようになるのだ。
つまり実際の運動と、言論活動が1つになるわけだ。一人ひとりが、運動の実践者であり、かつジャーナリストということになる。実際の実践者であるから無責任なことは言えなくなる。有言実行しなければならないようになるのだ。
▼野党的言論から与党的言論へ
こうなると言論活動の質も変わってくると思う。スポンタ中村さんという有名なブロガーは、新しいジャーナリズムの言説を「与党的ジャーナリズム」と呼ぶ。非常におもしろい発想だと思う。自分に責任がないので、とりあえず反対、批判しておく、というタイプの言論活動がある。中村さんはこれを「野党的なジャーナリズム」と呼ぶ。ある意味、無責任な言論活動だ。
どうせ自分は社会を変えられない。社会を動かしているのは1部のエリート層だ。そういう思いが、野党的ジャーナリズムの根底にあるのだろう。これからは一人ひとりが発言し、実際に社会を動かすことのできる社会を目指すべきだ。少なくとも発言のための道具を手に入れたのだから。そして実際に社会を動かせるという可能性があるであれば、当事者意識を持つべきだろう。評論家にとどまっているべきではない。「彼らのやり方のどこが間違っているのか」という言論活動ではなく、「自分は何をすべきか」という言論活動になっていかなければならないのだと思う。
ジャーナリズムの起源は、ヨーロッパの宗教革命の際のパンフレット配布にある、という説がある。世の中をよい方向に変えようという思いで、実際に社会活動をし、それに伴った言論活動がジャーナリズムの始まりだったというわけだ。それがマスメディア企業の登場によって、実際の社会活動と言論活動が切り離された。言論活動はジャーナリズムと呼ばれ、20世紀にはマスメディア企業により独占されるようになった。マスメディア企業の社員やマスメディア企業が認める人たちしかジャーナリズムを実践できなくなったのだ。
それがインターネットの普及で、再び言論活動がすべての市民の元に戻ってきた。そして再び社会をよくしようという社会活動、企業活動をする人たちが、社会をよくしようという言論活動をもするようになるのだと思う。実際の社会、企業活動と、言論活動が再び1つになる。まるで宗教革命のときのように。
そして宗教革命のころにはジャーナリズムという言葉が存在しなかったように、いずれジャーナリズムという言葉は死語になるのだと思う。ジャーナリズムという言葉は、一部の人たちが言論活動を独占していた時代の言葉として、歴史の教科書の中に閉じこめられるようになるのだろう。ジャーナリスティックな言論活動はなくならない。しかし、ジャーナリズムという言葉は何十年後、何百年後にはなくなるのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
日本の参加型ジャーナリズムの近未来像は、市民記者サイトといった1つのサイトの中でだけ盛り上がるという形は取らないだろうという予測は既に述べた。端緒はどこであってもいい。JANJANであっても、ツカサネットであっても、ブログであっても、テレビのニュースであってもいい。どこかでだれかが発信した情報がネット上の口コミで広がり始める。その広がり具合をブログ検索エンジンなどのネット上の話題を見つけ出す仕組みが察知する。独特の計算方式を使ってネット上で話題になっているウェブページをランク付けする「話題の.jp」や、人気ブログ検索サービス「テクノラティ」の検索キーワードランキングなどは、ネット上で何が話題になっているのかを調べる道具として既に存在している。今後こうした仕組みはさらに技術改良が加えられ、使い勝手や性能が向上する方向にあることは間違いないだろう。
こうした仕組みを使って伝搬し始めた情報を、既存メディアや、マスメディア並みの影響力を持つブログやサイトが取り上げることによって、その情報はさらに拡散することになる。
またマスメディアや有力ブログ、サイトが取り上げない情報であっても、その情報を必要とする人たちの間での情報交換、議論は長く続くことになるだろう。
参加型ジャーナリズムの情報伝搬の基本的な形はこのようなものになると思う。
▼内部告発、政治情報の充実
この基本形に加えて、今後の変化を予感させる幾つかの兆候は既に見え始めている。
1つの兆候は、内部告発の増加である。1980年代、90年代ころからだろうか。談合、情報隠蔽など、これまでは業界の常識、必要悪とみなされた商慣習が、明るみに引きずり出されて裁かれることが増え始めた。社会人としての常識よりも、企業の社員、業界のメンバーとしての考え方を優先することが、犯罪として取り扱われ出したのだ。それに加えて年功序列、終身雇用という商慣習も崩れ始めた。その結果、会社や業界に対する忠誠心も崩れ始めた。それに加えてインターネットという情報発信ツールが広く普及し始めた。内部告発を誘発する環境が整ったわけだ。
もちろん内部告発が増えるといっても調査報道が不要になるわけではない。既存メディア関係者は「情報流通量が増えてもゴミのような情報が増えるだけ。必要な情報を取ってくるという仕事はなくならない」と強調したがるが、それはその通り。調査報道に対するニーズは、減るどころか、かえって高まるだろう。
もう1つの兆候は、政治に関する情報の増加だ。どの政党がどのような公約をどのように実現したか、していないか。どの議員がどのような発言を行い、どのような行動を取ってきたか。こうした情報を分かりやすく表示しようという動きがポータルなどのサイトで活発になり始めた。公示後のネット上での情報を規制する公職選挙法も改正されることになるのはまず間違いない。今後はより多くの政治関連情報が非常に分かりやすい形でネット上に掲載されることになるだろう。有権者は、自分の投じた一票がどのように政治を変えるのかをより明白に理解できるようになる。地方自治に関する情報を取り扱う地域ポータルも出てくることだろう。
政治に対するしらけムードは、「政治はむつかしい」「どうせ自分の一票では何も変わらない」という気持ちが根底にある。政治を分かりやすくし、一票の効果を見える形にすれば、政治に対する関心は高まるだろう。
▼NPO、PGO、一般市民に期待
もう1つの兆候は、NPO、NGO関係者の情報発信の増加だ。日本財団は2005年に、ウェブサイトをブログ形式に変更した「canpan」というサイトをオープンした。ブログホスティングにも乗り出しており、だれでも無料でcanpan上でブログを開設できるようになっている。寄付金に頼る団体も多いが、ブログの内容がいいから寄付金が集まるということも今後増えてくるだろう。日々更新するブログ上でうそを書き続けることは容易なことではない。ブログにはどうしても、書き手の「人となり」がにじみ出るものだと思う。募金集めのためのパンフレットなどよりも、ブログを通じてその団体の活動内容や趣旨といったものが分かるようになると思われるからだ。
NPO、NGO関係者は、お金儲けよりも日本をよくしたい、社会をよくしたいと考える人たちと言っていいだろう。わたしはNPO、NGO関係者の若者を個人的に何人か知っている。彼らは非常に優秀で、まるでベンチャー企業を立ち上げる感覚でNPO団体を立ち上げている。事実、そのうちの一人はNPO法人を立ち上げる前には大学時代の友人たちとベンチャー企業の立ち上げに参画した経験があるという。今回ベンチャー企業ではなくNPO法人にした理由は、お金儲けより社会をよくしたいという思いのほうが強いからだという。彼の大学の友人には、ほかにもNPO法人を立ち上げた人が何人かいるという。彼らがニート世代といわれる世代に属しているとは信じられないほど、使命感を持った若者たちだ。
これからのジャーナリズムの中心になるのは、社会をよくしたいという思いをベースにした一般の人たちの言論活動だと思う。非常に青臭い議論のように思われるかもしれないが、わたしはそう信じている。日本国内でこう主張すると、「価値のある情報に対して報酬が支払われない限り、参加型ジャーナリズムは成立しない」という反論を必ず受ける。40人ほど集まったある勉強会でも、わたし以外の全員が「対価なしに有益な情報は出てこない」という意見だった。
米国の参加型ジャーナリズムの研究者であるサンノゼ・マーキュリー・ニューズの元コラムニストのダン・ギルモアさんが来日したときに、このあたりの議論を仕掛けてみた。ギルモアさんもわたし同様に、社会をよくしたいと思う人たちの情報発信で参加型ジャーナリズムが成り立つと考えていた。わたしが「日本人の多くはそう考えていない。ろいろな人と議論してきたが、多くの人は対価を支払わない限り有益な情報は出てこないと考えている」と言うと、ギルモアさんは首を傾げた。「本当にそうだろうか。自分の子供たちの世代のために、少しでもいい社会を作りたいという気持ちは、日本人にはないと言うのか」。そんなことはないはずだと、ギルモアさんを言った。
確かにそう言われればそうかもしれない。「みんなで社会をよくしましょう」という青臭い議論には気恥ずかしくて賛同しかねる人たちの心の中にも、「子供たちにいい社会を残したい」という気持ちは絶対にあるはずだ。日本人が米国人に比べて、冷徹で利己主義だとは思えない。日本でも、社会をよくしたいという思いをベースにした言論活動がこれからのジャーナリズムの主流になるはずだと思う。
高邁な思想を持って添加国家を論じることだけがジャーナリズムではなくなる。文章としての質の高さが必要条件のジャーナリズムの時代は終わろうとしている。これからは高邁な思想を持たなくてもいい。身の周りのことを論じるだけでもいい。文章がへたでもいいと思う。「社会をよくしたい」という思いの言論活動はすべて新しいジャーナリズムの範疇に加えてもいいのではなかろうか。
NPOやNGOだけではない。「子供のために公園をもっと作ってほしい」という母親の主張もジャーナリズムになるのだと思う。そしてインターネットは同じような思いを持つ人たちを結びつける。これがネット普及前と普及後の社会の異なるところだ。「公園がほしい」と思う人たちがつながりはじめ、1つの運動になっていく。そして行政を動かすようになるのだろう。「社会をよくしたい」という思いを持つ人ならだれでもが、ジャーナリズムを実践できるようになるのだ。
つまり実際の運動と、言論活動が1つになるわけだ。一人ひとりが、運動の実践者であり、かつジャーナリストということになる。実際の実践者であるから無責任なことは言えなくなる。有言実行しなければならないようになるのだ。
▼野党的言論から与党的言論へ
こうなると言論活動の質も変わってくると思う。スポンタ中村さんという有名なブロガーは、新しいジャーナリズムの言説を「与党的ジャーナリズム」と呼ぶ。非常におもしろい発想だと思う。自分に責任がないので、とりあえず反対、批判しておく、というタイプの言論活動がある。中村さんはこれを「野党的なジャーナリズム」と呼ぶ。ある意味、無責任な言論活動だ。
どうせ自分は社会を変えられない。社会を動かしているのは1部のエリート層だ。そういう思いが、野党的ジャーナリズムの根底にあるのだろう。これからは一人ひとりが発言し、実際に社会を動かすことのできる社会を目指すべきだ。少なくとも発言のための道具を手に入れたのだから。そして実際に社会を動かせるという可能性があるであれば、当事者意識を持つべきだろう。評論家にとどまっているべきではない。「彼らのやり方のどこが間違っているのか」という言論活動ではなく、「自分は何をすべきか」という言論活動になっていかなければならないのだと思う。
ジャーナリズムの起源は、ヨーロッパの宗教革命の際のパンフレット配布にある、という説がある。世の中をよい方向に変えようという思いで、実際に社会活動をし、それに伴った言論活動がジャーナリズムの始まりだったというわけだ。それがマスメディア企業の登場によって、実際の社会活動と言論活動が切り離された。言論活動はジャーナリズムと呼ばれ、20世紀にはマスメディア企業により独占されるようになった。マスメディア企業の社員やマスメディア企業が認める人たちしかジャーナリズムを実践できなくなったのだ。
それがインターネットの普及で、再び言論活動がすべての市民の元に戻ってきた。そして再び社会をよくしようという社会活動、企業活動をする人たちが、社会をよくしようという言論活動をもするようになるのだと思う。実際の社会、企業活動と、言論活動が再び1つになる。まるで宗教革命のときのように。
そして宗教革命のころにはジャーナリズムという言葉が存在しなかったように、いずれジャーナリズムという言葉は死語になるのだと思う。ジャーナリズムという言葉は、一部の人たちが言論活動を独占していた時代の言葉として、歴史の教科書の中に閉じこめられるようになるのだろう。ジャーナリスティックな言論活動はなくならない。しかし、ジャーナリズムという言葉は何十年後、何百年後にはなくなるのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2006-01-02 07:05
| 本の原稿