2004年 07月 22日
ジャーナリズムの定義 |
お気に入りのブログ「ジャーナリズム考現学」に触発されてジャーナリズムとは何なのかを考えてみたい。まあそれ以前にも拙著を読んでくれた人から「瑣末な金儲けの話ばかりで、肝心のジャーナリズムの今後について書かれていない」という批判があったので、いずれはジャーナリズムの定義に触れなければならないと考えてはいたのだが・・・。
実はこれまで、わざとジャーナリズムの定義には触れなかった。それは、人が「ジャーナリズム」という言葉を発するときに、聞く人の中にどろどろとした感情を呼び起こすことがあるからだ。非常にやっかいな言葉なので、わざと避けて通ったわけだ。
当然ながらわたしの周りの人間は、大半が新聞記者である。そしてその人たちは「ジャーナリズム」や「ジャーナリスト」「新聞記者」という言葉をよく口にするのだが、気をつけて聞いていると、その定義は人によって大きく異なる。
これまでわたしが聞いた「ジャーナリスト」、「新聞記者」の定義らしい発言を書き並べてみよう。これらの言葉はわたしが言ったのではない。知り合いの新聞記者たちが言ったのである。
「サツ回り(警察関係者の取材)をしたことがないヤツは新聞記者ではない」
「夜回り(夜間に取材対象の自宅を訪問すること)をしたことのないやつは新聞記者ではない」
「記事の翻訳ばかりやっている外信部の記者はジャーナリストではない」
「相場記事ばかり書く外国通信社の記者はジャーナリストではない」
「テレビ局の記者はジャーナリストではない」
「テレビのキャスターはジャーナリストではない」
「天下国家を論じることのできないヤツはジャーナリストではない」
不思議なことに「ではない」という定義が圧倒的に多く、「こういうのがジャーナリストだ」という話はあまり聞かない。
この「ではない」の定義は、他の分野でもよく耳にする。以前読んだ林真理子のエッセーの中に「芥川賞や直木賞を取ったことのない人は作家と名乗ってはいけない」という論調があった。駆け出しタレントのことを女優と形容したテレビ局の人間に対し「あんな子を女優と呼ばないで」とヒステリックに怒った大物女優の話から始まったエッセーだった。
林真理子はこの大物女優にいたく共感したようで、自分も直木賞を取るまで作家と名乗らなかったと書いている。言葉を変えれば、大物になるまで女優と名乗るな、有名な賞を取るまで作家と名乗るな、ということなのだろう。
別にどうでもいいんじゃないの、というのがこのエッセーを読んだわたしの感想だ。映画やテレビドラマに出る女性の俳優さんの職業は「女優」でいいし、本を書くことで生活している人は「作家」でいいではないか、と思った。
なぜ人は、特定の人間を自分と同じグループに入れたがらないのだろう。グループの線引きをしたがるのだろう。
それはやはり劣等感が絡んでいるのだろうと思う。自分の職業グループの中には、自分より優れた人物がたくさんいる。早くその人たちに追いつき、追い越したい―。こういう向上心自体は問題ない。
ただ思うように向上できないときに、自分より下と思われる者をグループから排除することで、グループの平均的な質を高めようとするのではないだろうか。そのためには、自分のすぐ下の人間から排除する必要がある。そうすれば自分は一番下の構成員としてグループに所属することができる。当然グループの平均的な質は自分の実力より上になる。そのグループに属している自分も実力以上に高く評価される―そんなような気になるのだろう。
つまり劣等感の裏返しとしての優越感を感じたいために「ではない」の定義をするのだと思う。「ジャーナリストではない」定義をする新聞記者たちも、向上心と劣等感のせめぎあいの中で苦しんでいるのだろう。
奥深いところにある感情が原動力になっている「ジャーナリスト」の定義なので、論理的な議論で対抗することは不可能。聞き手としては、聞き流すことで感情を発散させてあげることが、何よりの思いやりだと思う。
とはいっても、ジャーナリズムとは何なのか、ジャーナリストとは何なのか、を感情を排してきっちりと議論しておく必要があるだろう。
ジャーナリズム考現学は、「ジャーナリズムの定義」の中で、花田達朗の考え方を紹介している。
この考えを発展させジャーナリズム考現学は次のように自問している。
そして次の書き込み「あなたも今からジャーナリストになれる」では次のように結んでいる
これはまさしくわたし自身の主張でもある。インターネット、ウェブログというツールを得て、公明、公正な議論を望む人はだれでもジャーナリストとして活動できるようになったのだ。
民主主義にとってこれほどの朗報はないだろう。既存の報道機関はこうした動きに対抗するのではなく、支援、補完する形を模索しなければならない。もうその時期にきているだ。
微力ながら草の根ジャーナリズムと既存報道機関の融合のお手伝いをできれば、と思って開設したのがこのブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」である。
実はこれまで、わざとジャーナリズムの定義には触れなかった。それは、人が「ジャーナリズム」という言葉を発するときに、聞く人の中にどろどろとした感情を呼び起こすことがあるからだ。非常にやっかいな言葉なので、わざと避けて通ったわけだ。
当然ながらわたしの周りの人間は、大半が新聞記者である。そしてその人たちは「ジャーナリズム」や「ジャーナリスト」「新聞記者」という言葉をよく口にするのだが、気をつけて聞いていると、その定義は人によって大きく異なる。
これまでわたしが聞いた「ジャーナリスト」、「新聞記者」の定義らしい発言を書き並べてみよう。これらの言葉はわたしが言ったのではない。知り合いの新聞記者たちが言ったのである。
「サツ回り(警察関係者の取材)をしたことがないヤツは新聞記者ではない」
「夜回り(夜間に取材対象の自宅を訪問すること)をしたことのないやつは新聞記者ではない」
「記事の翻訳ばかりやっている外信部の記者はジャーナリストではない」
「相場記事ばかり書く外国通信社の記者はジャーナリストではない」
「テレビ局の記者はジャーナリストではない」
「テレビのキャスターはジャーナリストではない」
「天下国家を論じることのできないヤツはジャーナリストではない」
不思議なことに「ではない」という定義が圧倒的に多く、「こういうのがジャーナリストだ」という話はあまり聞かない。
この「ではない」の定義は、他の分野でもよく耳にする。以前読んだ林真理子のエッセーの中に「芥川賞や直木賞を取ったことのない人は作家と名乗ってはいけない」という論調があった。駆け出しタレントのことを女優と形容したテレビ局の人間に対し「あんな子を女優と呼ばないで」とヒステリックに怒った大物女優の話から始まったエッセーだった。
林真理子はこの大物女優にいたく共感したようで、自分も直木賞を取るまで作家と名乗らなかったと書いている。言葉を変えれば、大物になるまで女優と名乗るな、有名な賞を取るまで作家と名乗るな、ということなのだろう。
別にどうでもいいんじゃないの、というのがこのエッセーを読んだわたしの感想だ。映画やテレビドラマに出る女性の俳優さんの職業は「女優」でいいし、本を書くことで生活している人は「作家」でいいではないか、と思った。
なぜ人は、特定の人間を自分と同じグループに入れたがらないのだろう。グループの線引きをしたがるのだろう。
それはやはり劣等感が絡んでいるのだろうと思う。自分の職業グループの中には、自分より優れた人物がたくさんいる。早くその人たちに追いつき、追い越したい―。こういう向上心自体は問題ない。
ただ思うように向上できないときに、自分より下と思われる者をグループから排除することで、グループの平均的な質を高めようとするのではないだろうか。そのためには、自分のすぐ下の人間から排除する必要がある。そうすれば自分は一番下の構成員としてグループに所属することができる。当然グループの平均的な質は自分の実力より上になる。そのグループに属している自分も実力以上に高く評価される―そんなような気になるのだろう。
つまり劣等感の裏返しとしての優越感を感じたいために「ではない」の定義をするのだと思う。「ジャーナリストではない」定義をする新聞記者たちも、向上心と劣等感のせめぎあいの中で苦しんでいるのだろう。
奥深いところにある感情が原動力になっている「ジャーナリスト」の定義なので、論理的な議論で対抗することは不可能。聞き手としては、聞き流すことで感情を発散させてあげることが、何よりの思いやりだと思う。
とはいっても、ジャーナリズムとは何なのか、ジャーナリストとは何なのか、を感情を排してきっちりと議論しておく必要があるだろう。
ジャーナリズム考現学は、「ジャーナリズムの定義」の中で、花田達朗の考え方を紹介している。
花田達朗はマスメディアはシステムの活動で、ジャーナリズムは意識の活動だと定義する。つまり、ジャーナリズムは単に新聞や放送局の記者たちの活動を超えた、民主主義社会の形成に向け、その構成員全体の意識を指しているのだという。
この考えを発展させジャーナリズム考現学は次のように自問している。
もう一度、原寿雄の定義に戻ろう。原氏は、明らかにマスメディアとジャーナリズムを区別していない。ジャーナリズムを体言できるのは、マスメディアで働く記者たちだけだと見ている。
しかし、例えば企業内の広報や労働組合報で、会社の不正を暴いたとする。不正を暴こうとしたその執筆者の精神は、政府の不正を暴こうとする新聞記者の精神と通底するところがあるのではないか?前者を、それが単にある企業内の出来事であり、公共性がないからといってジャーナリズムではないと片づけることができるだろうか?
そもそも公共性の範囲はどこまで及ぶのだろうか?例えば公立学校の不祥事は公共性があるが、私立学校だったらないのだろうか?私立学校の生徒たちが学校新聞で先生の不正を暴いたら、それはジャーナリズムと呼べないのだろうか?
そして次の書き込み「あなたも今からジャーナリストになれる」では次のように結んでいる
さて、権力側が暴力で統治したいと思うことに対し、ジャーナリストたちは公明・公正な議論を望む。こうした望みは、職業的ジャーナリストだけでなく、その読者も共有している。よって、両者ともジャーナリズムという意識を持っているが、歴史的に送り手である記者だけをジャーナリストと呼んできたのだろう。
しかし、本来は受け手も、公明・公正な議論を求める考えに共鳴するのであれば、ジャーナリストと呼んでもいいのではないだろうか?しかも、今はインターネットやコピー技術の普及で、誰でも送り手になりうる時代だ。
自分が所属する集団、地域社会や国家の行く末を決める議論は公明・公正に行われるべきだ。こうした考えに賛同する人は、誰でもジャーナリストではないだろうか?
これはまさしくわたし自身の主張でもある。インターネット、ウェブログというツールを得て、公明、公正な議論を望む人はだれでもジャーナリストとして活動できるようになったのだ。
民主主義にとってこれほどの朗報はないだろう。既存の報道機関はこうした動きに対抗するのではなく、支援、補完する形を模索しなければならない。もうその時期にきているだ。
微力ながら草の根ジャーナリズムと既存報道機関の融合のお手伝いをできれば、と思って開設したのがこのブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」である。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-07-22 09:40
| 参加型ジャーナリズム