2004年 08月 04日
共同編集委員ブログ問題に関する優れた論評 |
共同通信編集委員室のブログの騒ぎは、今後の商業ジャーナリズムと草の根ジャーナリズムの融合というわたしの研究テーマの観点から非常に興味深い。わたしなりに意見をまとめて書こうと思ったのだが、ネット上で優れた見解が既に発表されている。まずそれを紹介したい。
まず「Fireside Chats」は学術論文並みに「騒動の概要」「騒動の原因と背景」「騒動の増殖のメカニズム」「残る問題」という切り口で情報をまとめ解説している。このブログが言うように、この騒動はブログにまつわる騒動としては最初の大型事件だと思う。そういう意味で、このブログは丁寧にこの問題を検証している。最も効率よくこの問題の全容を知りたければ、このFireside Chatというブログを読むのがいいだろう。
「あざらしサラダ」は非常にバランスの取れた議論をしている。
「カトラー:katolerのマーケティング言論」というブログのイカロスの墜落~共同通信ブログ休止の波紋~という書き込みは、すばらしい文章だ。文章を生業とするわたしだが、このようなすばらしい文章を書けるようになりたいと常に願っている。心情的にも共感を覚えるところが多い。
あまりにもすばらしいので、長文ながら一部をここに引用させてもらうが、ぜひ元の文章を読んでもらいたい。
カトラーさんが言うように、報道機関に所属する記者が報道機関の冠を掲げ署名入りでブログを持つということは、画期的なことだと思う。他の多くの報道機関では、とても考えられないことだ。共同通信編集委員室は、一方通行の情報発信に疲れ、読者との距離を縮めようと、あえて身分を明かし実名で意見を書き、読者からのコメントを受け付けるブログを採用した。このこと自体に、わたしは最大の敬意を表したい。
ネットを毛嫌いする多くの報道関係者は気づいていないが、報道機関と一般大衆の距離は開く一方だ。多くの報道関係者は自分たちが民衆の側に立っていると考えているが、一般大衆は報道機関を体制側、権力側とみなしているのだ。
わたしは、もう一度、報道機関と一般大衆を近づけなければならないという思いからこのブログを運営している。同じ目的に向かって果敢に前進しているのが、共同通信編集委員室だったと思う。
それが今回の騒ぎで1カ月以上もブログが休止されたままになっている。非常に残念なことだ。
共同通信編集委員室の小池新編集長は、ブログ上でのコミュニケーションの仕方を知らなかったという分析がある。そうかも知れない。わたしは、ブログを使った議論はパネル討論会のようなものだとわたしは思っている。数人のパネリストが壇上にいて、順番にそれぞれがプレゼンテーションを行っているようなものだ。
そういう状況でパネリストA氏がパネリストB氏に対して「Bさんはスノッブだ。鼻持ちならない。若い人はこういうのにだまされてはだめだ」と言えば、これはBさんに対する人格攻撃である。B氏が「なんだと!」と反論すれば、壇上でのけんかになっていただろう。しかしBさんは大人だから「鼻持ちならないっていわれたのは初めてかも。ハハハ」と軽く流した。Bさんが反論しないものだから、会場を埋め尽くしていたBさんファンから「ちょっと待った。Aさん、あなたBさんにあやまるべきだ」といった抗議の声が上がった。こういう構図だろう。
もし小池編集長がブログをパネル討論会ようなものだとみなしていたら、恐らくこうした発言はしなかっただろう。わたしは小池さんとは面識がないが、文章からみて非常に紳士的な方だろうと推測する。そういう方は、パネル討論会で人格攻撃はしないし、失言したことに気づけばすぐに謝るだろう。誠意を込めて謝れば、B氏も許してくれるし、B氏のファンの騒ぎも収まるだろう。
繰り返すが、共同通信の試みは非常に重要なことである。一般大衆との良好なコミュニケーションなしに商業ジャーナリズムの明日はない、とさえ私は考える。
今回のことに懲りず、ブログを再開していただきたい。また他の報道機関も大衆とのコミュニケーションをあきらめることのないようにしてもらいたい。
まず「Fireside Chats」は学術論文並みに「騒動の概要」「騒動の原因と背景」「騒動の増殖のメカニズム」「残る問題」という切り口で情報をまとめ解説している。このブログが言うように、この騒動はブログにまつわる騒動としては最初の大型事件だと思う。そういう意味で、このブログは丁寧にこの問題を検証している。最も効率よくこの問題の全容を知りたければ、このFireside Chatというブログを読むのがいいだろう。
「あざらしサラダ」は非常にバランスの取れた議論をしている。
小池編集長を始めとする共同通信が、一般読者との新しいコミュニケーションのあり方について色々模索していたことは評価できるが、これまで一方通行的なコミュニケーションしか経験してこなかったマスコミにとって、『一方的に相手の「人格」を否定するような発言をすると、書いた本人が予想する以上に激しい反応が返ってくる』という、ネットにおけるコミュニケーションのルールを熟知していなかったことが、今回の騒動を招いた最大の原因ではないだろうか。
(中略)
一方、小池編集長を「バッシング」した人たちも感情にまかせるのではなく、もう少し冷静な批判が望ましかったのではないだろうか。とくに、『基本的に自分の素性(リンク先)を明らかにしてコミュニケーションを重ねる』という、「ブログ」のルールを自ら破棄してしまったことは、とても残念に思える。
さらに、共同通信が今回の件に懲りて従来のマスコミの「枠」の中に戻り、再び一方的な情報発信しかしなくなれば、マスコミと一般市民が同じ土俵で議論するという折角のチャンスを棒に振る結果になるかも知れない。
「カトラー:katolerのマーケティング言論」というブログのイカロスの墜落~共同通信ブログ休止の波紋~という書き込みは、すばらしい文章だ。文章を生業とするわたしだが、このようなすばらしい文章を書けるようになりたいと常に願っている。心情的にも共感を覚えるところが多い。
あまりにもすばらしいので、長文ながら一部をここに引用させてもらうが、ぜひ元の文章を読んでもらいたい。
小池氏は、読者からの反応に対してオープンにいきたいという考え方を当初から持っていて、こうしたブログを始めたのだと推測している。
小池氏が夢想したのは、ジャーナリストと読者が自由闊達に意見を述べ合う開かれた言語空間ではなかったのか。
ブログというコミュニケーションツールに彼が期待したのは、そうした夢であったに違いない。
ブログは、マスコミと読者の関係、ジャーナリズムのあり方を大きく変える可能性を持っていると思う。どの新聞社やマスコミも、第一線の記者や編集長などラインの業務を終えた「編集委員」「解説委員」と呼ばれる人々を数多く抱えているが、もし彼らが、小池氏のように自分のブログを持って、個人の立場で情報発信を始めたら、それだけで閉鎖的といわれるこの国の言語空間は劇的に変わるはずだ。
ギリシア神話に登場するイカロスは、囚われた島から、2組の翼を作り、蜜蝋で背中に接着して脱出を試みる。しかし父親の忠告を無視して高く飛びすぎたため、太陽の熱で蜜蝋が溶け、海に墜落してしまう。この寓話は、その後、「思慮の足りない浅はかな人間にならないように」というメッセージを持つ教育的訓話として利用されていくのだが、私が今回の騒動を「イカロスの墜落」と表現したのは、そうした意味ではない。イカロスの寓話によって表現されているのは、人間の愚かさではなく、「リスクを取る人間につきまとう悲しみ」だと考えている。その意味でイカロスは、ドンキホーテにも似ている。常に新しいことや、新天地を目指すものたちは、結果、うまく事が運べば喝采されるが、そうでなければ笑いモノになってしまう。しかし、世界は、そうした何人ものイカロスやドンキホーテが存在したことで変革されてきたはずだ。
墜ちたイカロスを殺してはならない。
カトラーさんが言うように、報道機関に所属する記者が報道機関の冠を掲げ署名入りでブログを持つということは、画期的なことだと思う。他の多くの報道機関では、とても考えられないことだ。共同通信編集委員室は、一方通行の情報発信に疲れ、読者との距離を縮めようと、あえて身分を明かし実名で意見を書き、読者からのコメントを受け付けるブログを採用した。このこと自体に、わたしは最大の敬意を表したい。
ネットを毛嫌いする多くの報道関係者は気づいていないが、報道機関と一般大衆の距離は開く一方だ。多くの報道関係者は自分たちが民衆の側に立っていると考えているが、一般大衆は報道機関を体制側、権力側とみなしているのだ。
わたしは、もう一度、報道機関と一般大衆を近づけなければならないという思いからこのブログを運営している。同じ目的に向かって果敢に前進しているのが、共同通信編集委員室だったと思う。
それが今回の騒ぎで1カ月以上もブログが休止されたままになっている。非常に残念なことだ。
共同通信編集委員室の小池新編集長は、ブログ上でのコミュニケーションの仕方を知らなかったという分析がある。そうかも知れない。わたしは、ブログを使った議論はパネル討論会のようなものだとわたしは思っている。数人のパネリストが壇上にいて、順番にそれぞれがプレゼンテーションを行っているようなものだ。
そういう状況でパネリストA氏がパネリストB氏に対して「Bさんはスノッブだ。鼻持ちならない。若い人はこういうのにだまされてはだめだ」と言えば、これはBさんに対する人格攻撃である。B氏が「なんだと!」と反論すれば、壇上でのけんかになっていただろう。しかしBさんは大人だから「鼻持ちならないっていわれたのは初めてかも。ハハハ」と軽く流した。Bさんが反論しないものだから、会場を埋め尽くしていたBさんファンから「ちょっと待った。Aさん、あなたBさんにあやまるべきだ」といった抗議の声が上がった。こういう構図だろう。
もし小池編集長がブログをパネル討論会ようなものだとみなしていたら、恐らくこうした発言はしなかっただろう。わたしは小池さんとは面識がないが、文章からみて非常に紳士的な方だろうと推測する。そういう方は、パネル討論会で人格攻撃はしないし、失言したことに気づけばすぐに謝るだろう。誠意を込めて謝れば、B氏も許してくれるし、B氏のファンの騒ぎも収まるだろう。
繰り返すが、共同通信の試みは非常に重要なことである。一般大衆との良好なコミュニケーションなしに商業ジャーナリズムの明日はない、とさえ私は考える。
今回のことに懲りず、ブログを再開していただきたい。また他の報道機関も大衆とのコミュニケーションをあきらめることのないようにしてもらいたい。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-08-04 11:50
| 共同ブログ騒動