2004年 08月 13日
参加型ジャーナリズムをめぐるちょっとした論争 |
前回のデーブ・ワイナー氏のインタビュー記事をめぐって、実は小さな論争が起こったことがある。このインタビュー記事は拙著の中で紹介したのだが、このワイナー氏の考え方が間違っているという書評が出て、それに対する反論がネット上で展開されたのだ。以前別のブログで簡単に触れたが、参加型ジャーナリズムを考える上でもう一度考え直す必要があると思うので、ここで再び取り上げることにする。
昨年11月6日付の週刊文春は、書評欄で拙著を取り上げてくれた。書評を寄せてくださったのは本郷美則さん。朝日新聞OBの方だ。
書評の中で本郷さんは、デーブ・ワイナー氏のインタビュー部分に触れ、ワイナー氏のインタビューを批判もせずに紹介するのはおかしいと指摘している。
本郷さんは「『ジャーナリズム』と、インターネット上での草の根の『発言』『意見』は、似て非なるものである」と言う。
そしてそれを分かりやすく説明するために、次のような例を挙げている。
本郷さんのこの意見に対してBlog:Tiaoは次のように批判している。
まず「新聞でいう価値ある情報には、見識が濾過した信頼がある」という主張に対しては:
次に「それを提供できるのは、該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の勇気を兼ね備え、厳しい研鑚を積んだジャーナリズムのプロである」という部分に対しては:
そして「ネット発信者が、見聞きし、読み、考えたままを発言し、主張しても、プロの吟味を経ずしてはジャーナリズムにはなり得ない」という部分に対しては:
もっと厳しく反論しているのが、宇佐美保さん。ご自身のウェブページで「無能なジャーナリストの傲慢」と題して、よりストレートな表現で批判されている。
3人の客の比喩に対して宇佐美さんは次のように指摘している。
「価値ある情報を提供できるのはプロのジャーナリストで、プロの吟味を経ずしてはジャーナリズムになり得ない」という主張に対しては:
本郷さんは新聞記者という仕事に誇りと愛着を持っておられるのだろう。その誇りと愛着のせいで、理想のジャーナリスト像を語るときに肩に力が入る。少なくとも新聞記者以外の人には、肩に力が入っているようにみえるのだろう。
一方、Blog:Tiaoを運営するMAOさんや、宇佐美さんは、マスコミの現状に不満を持っておられる。
それぞれが異なる感情を持って議論している。
しかもネットでの経験が異なる。
本郷さんが「ネット」という言葉を使う場合、恐らく無責任発言の多い電子掲示板のことを指しておられるのだろう。一方、MAOさん、宇佐美さんは、ネット上に質の高い議論が存在することを経験的に知っておられる。「ネット」という言葉が指す言論空間のイメージに大きく差があると思われる。
これでは議論がかみ合うはずがない。
感情の部分は仕方がないと思うけれど、本郷さんもブログを始められれば、ネットに対するイメージが変わるかもしれない。そして質の高い議論をするブログを読めば、「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の勇気を兼ね備えた」人は、新聞社の外にも数多く存在するということを実感されることと思う。わたしに聞いてくれれば、質の高い議論を展開しているブログを幾つでも紹介してあげよう。
そして前回の書き込みに対してdawnさんからトラックバックをいただいた。dawnさん、ありがとう。
dawnさんの主張は、もっともだと思う。
おそらくわたしと意見が違うように見えるのは、ジャーナリズムの定義が違うからだと思う。ジャーナリズムの定義は人によって異なる。調査報道だけをジャーナリズムと考える人もいるし、国際報道こそがジャーナリズムだと考える人もいる。社会の事象を客観的に伝えることをジャーナリズムと考える人もいるだろう。わたしのお気に入りブログ「ジャーナリズム考現学」では「自分が所属する集団、地域社会や国家の行く末を決める議論は公明・公正に行われるべきだ。こうした考えに賛同する人は、誰でもジャーナリスト」ととし、権力が暴力で統治しようとすることに対し公明、公正な議論で対抗することをジャーナリズムと考えているようだ。
わたしの中のジャーナリズムの定義もこれにに近い。
この定義でいくと、ブログの「感想」の中にもジャーナリズムと呼べるものがあると思う。調査報道という定義ならは、「感想」はジャーナリズムではない。
現時点では、調査報道を実践するブロガーはほとんどいないし、ジャーナリズムと呼べそうな「感想」を述べるブロガーもそう多くない。だから現時点では、ブログすなわちジャーナリズムというわけではないと思う。
ただブログ、そして今後も登場してくるであろう新しいコミュニケーションの道具を使って、参加型ジャーナリズムが生まれてきそうな予感はする。単なる予感ではあるが、わくわくするような予感である。
昨年11月6日付の週刊文春は、書評欄で拙著を取り上げてくれた。書評を寄せてくださったのは本郷美則さん。朝日新聞OBの方だ。
書評の中で本郷さんは、デーブ・ワイナー氏のインタビュー部分に触れ、ワイナー氏のインタビューを批判もせずに紹介するのはおかしいと指摘している。
本郷さんは「『ジャーナリズム』と、インターネット上での草の根の『発言』『意見』は、似て非なるものである」と言う。
そしてそれを分かりやすく説明するために、次のような例を挙げている。
比喩で示そう。ショウケースに置かれたカレーの値札が倒れている。三人の客が当てずっぽうに値段を言い合ううちに、六百円か、との合意に至る。そこへ現れた男が、ケースの裏へ回って値札をつかみ出し、「七百円、この通り」と差し示す。
価値ある情報とは、これである。ジャーナリスト、ジャーナリズムの役割が、ここにある。
(中略)
新聞でいう価値ある情報には、見識が濾過した信頼がある。
それを提供できるのは、該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の勇気を兼ね備え、厳しい研鑚を積んだジャーナリズムのプロである。
本郷さんのこの意見に対してBlog:Tiaoは次のように批判している。
まず「新聞でいう価値ある情報には、見識が濾過した信頼がある」という主張に対しては:
あってほしいものであると、応えるしかできない。
まだ新聞が権威を保っているように見えるのは、勉強不足、勉強嫌いになった衆愚の民の寄らば大樹の陰という思考停止状態があるからに過ぎないのではないだろうか?
次に「それを提供できるのは、該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の勇気を兼ね備え、厳しい研鑚を積んだジャーナリズムのプロである」という部分に対しては:
言っていることは全く正しいし、格調のある滋味あふれる表現であるが、そのプロのジャーナリストが新聞社にいるかどうかを聞きたいのだ。
繰り返すが、もしそうしたプロ中のプロのジャーナリストが新聞社にいるのであれば、冒頭でご自身が認めたような不甲斐ない新聞の現状はないはずだ。
そして「ネット発信者が、見聞きし、読み、考えたままを発言し、主張しても、プロの吟味を経ずしてはジャーナリズムにはなり得ない」という部分に対しては:
これにも概ね同意できるが、最後の「プロの吟味を経ずしては」というところを「多くの民草の厳しい眼の吟味を経ずしては」と書き換えた方がもっとよくなる。
筆者が義憤に駆られているのはよく伝わるし、理解できる。が、それは筆者が育ててきた後輩たち、現役の新聞社内の記者やデスクへ問う言葉であろう。ネットへ向かって叫んだところで、なんの意味もない。
もっと厳しく反論しているのが、宇佐美保さん。ご自身のウェブページで「無能なジャーナリストの傲慢」と題して、よりストレートな表現で批判されている。
3人の客の比喩に対して宇佐美さんは次のように指摘している。
ここに書かれた本郷氏の比喩の意味を、私は全く理解できません。
「三人の客」がインターネット上での発言者の事ですか?
そして「インターネット上での草の根の「発言」「主張」」が「当てずっぽう」だと言うのでしょうか?
更に判らないのは「そこへ現れた男が、ケースの裏に回って値札をつかみ出し、「七百円。この通り」と差し示す」との人物がジャーナリストなのでしょうか?
可笑しいですよね。
「三人の客」だって、勝手に「ケースの裏に回って値札をつかみ出し」等という行為が許されるなら、「当てずっぽう」でガヤガヤ喚かずにさっさと「値札をつかみ出し」納得する筈です。
私には、この本郷氏の比喩からでは、「記者クラブ」等というジャーナリストだけが出入り出来る所から得る事を、得意気に披露でもしている光景しか目に浮かびません。
「価値ある情報を提供できるのはプロのジャーナリストで、プロの吟味を経ずしてはジャーナリズムになり得ない」という主張に対しては:
いかがですか?!
「ネット発信者」には、「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気(【編注】原文通り)を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだ」方々が皆無だと本郷氏はほざいているのですよね!?
逆に、私達は、現在のプロ・ジャーナリズムの世界に「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の男気(【編注】原文通り)を兼ね備え、厳しい研鑽を積んだ」人物が欠如していると痛感しているのではありませんか!?
本郷さんは新聞記者という仕事に誇りと愛着を持っておられるのだろう。その誇りと愛着のせいで、理想のジャーナリスト像を語るときに肩に力が入る。少なくとも新聞記者以外の人には、肩に力が入っているようにみえるのだろう。
一方、Blog:Tiaoを運営するMAOさんや、宇佐美さんは、マスコミの現状に不満を持っておられる。
それぞれが異なる感情を持って議論している。
しかもネットでの経験が異なる。
本郷さんが「ネット」という言葉を使う場合、恐らく無責任発言の多い電子掲示板のことを指しておられるのだろう。一方、MAOさん、宇佐美さんは、ネット上に質の高い議論が存在することを経験的に知っておられる。「ネット」という言葉が指す言論空間のイメージに大きく差があると思われる。
これでは議論がかみ合うはずがない。
感情の部分は仕方がないと思うけれど、本郷さんもブログを始められれば、ネットに対するイメージが変わるかもしれない。そして質の高い議論をするブログを読めば、「該博な知識と見識に加え、公正・公益のために真実に迫る無私の勇気を兼ね備えた」人は、新聞社の外にも数多く存在するということを実感されることと思う。わたしに聞いてくれれば、質の高い議論を展開しているブログを幾つでも紹介してあげよう。
そして前回の書き込みに対してdawnさんからトラックバックをいただいた。dawnさん、ありがとう。
私などがblog等で書いているのは単なる感想です。感想と報道とは、その基盤を、主観に置くのか、客観に置くのかと云う点に於いて、大きな違いがあります。
プロの自覚を持った人々が、フリーに取材し、その結果が参加型のものになることはジャーナリズムの一形態かもしれませんが、無差別な参加型ジャーナリズムと云うものには、繰り返しになりますが、相当な危惧を感じるところであり、そのようなものがジャーナリズムと呼べるのか疑問を感じます。
dawnさんの主張は、もっともだと思う。
おそらくわたしと意見が違うように見えるのは、ジャーナリズムの定義が違うからだと思う。ジャーナリズムの定義は人によって異なる。調査報道だけをジャーナリズムと考える人もいるし、国際報道こそがジャーナリズムだと考える人もいる。社会の事象を客観的に伝えることをジャーナリズムと考える人もいるだろう。わたしのお気に入りブログ「ジャーナリズム考現学」では「自分が所属する集団、地域社会や国家の行く末を決める議論は公明・公正に行われるべきだ。こうした考えに賛同する人は、誰でもジャーナリスト」ととし、権力が暴力で統治しようとすることに対し公明、公正な議論で対抗することをジャーナリズムと考えているようだ。
わたしの中のジャーナリズムの定義もこれにに近い。
この定義でいくと、ブログの「感想」の中にもジャーナリズムと呼べるものがあると思う。調査報道という定義ならは、「感想」はジャーナリズムではない。
現時点では、調査報道を実践するブロガーはほとんどいないし、ジャーナリズムと呼べそうな「感想」を述べるブロガーもそう多くない。だから現時点では、ブログすなわちジャーナリズムというわけではないと思う。
ただブログ、そして今後も登場してくるであろう新しいコミュニケーションの道具を使って、参加型ジャーナリズムが生まれてきそうな予感はする。単なる予感ではあるが、わくわくするような予感である。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-08-13 22:23
| 書評をめぐる論争