2005年 12月 08日
ネットは民主主義の敵か |
さて情報の洪水の中から必要な情報を探し出してくる技術や仕組みは今後も進化し続けることは間違いないだろうが、そうなることは民主主義にとってよくないのではないか、という指摘がある。
こう指摘したのは、シカゴ大学教授で憲法学者のキャス・サンスティーンさんだ。サンスティーンによると、情報の洪水の中から必要な情報を探し出してくる技術が発達することで、人々は自分の関心事に関連する情報だけを取得し、社会と問題意識を共有しなくなる可能性があるという。そして人々はネット上で同じ意見の者同士で集まり、議論することで、議論は過激になる一方だ、というのだ。
現在の主流のメディア環境では、マスメディア企業が「一般的に知っておかなければならないニュース、情報」や「多くの人が必要としているニュース、情報」を「幕ノ内弁当」的に並べて提供してくれる。このニュースの「幕ノ内弁当」を食している限り、社会人として見ず知らずの人とも会話できるし、投票を通じて社会を動かしていくこともできる。少なくとも理想論的には、そうしたことが可能と言っていいのかもしれない。
ところが、検索技術やフィルタリング技術などを使って、自分の関心事に関連する情報だけを取得していれば、関心事を共有しない人とは会話が成立しづらくなる。さらに言えば、何が社会の重要事項か分からなくなり、投票という形の政治参加さえ、うまくできなくなる。マスメディアの影響力が低下すれば、こういう未来になると、サンスティーンさんは危惧しているのだと思う。
多くの日本人にとって、サンスティーンさんのこの指摘はあまりピンとこないかもしれない。新聞を読まなくても、テレビのニュースを見なくても、日本の社会の一員として生活していく上で支障を感じることはない。民主主義が崩壊するとも思えない。社会が分断するとも思えない。ニュースを読まなくても、オレは日本人だし、その事実は変わらない。もともと政治には関心がない。自分の票で政治が変わるとも思えない―。そんな風に考える人が一定数いるような気がする。
わたしは人生の半分近くを米国で暮らした。日本での生活の経験から、上記のような日本人の感じ方も理解できる。また米国での生活の経験から、サンスティーンさんの意見にも納得するところがある。
言うまでもなく米国は他言語国家だ。英語は公用語なのだが、特に都市部には英語を片言しか話さない人が数多く住んでいる。わたしの住んでいたサンフランシスコは、人口の4分の1が中国系の住民だといわれる。
わたしの通った大学に、サンフランシスコのチャイナタウンで生まれ育った男がいた。米国生まれなのに、この男は大学になっても英語が片言しか話せず、留学生向けの英会話のクラスを受講していた。中国人の友人とだけつきあって、関心事は香港の芸能界のことだった。
米国社会の中においてチャイナタウンは、明らかに1つの社会を形成していた。
中国人社会だけではない。米国社会の中には、日本人社会、メキシコ人社会、黒人社会などが存在する。米国社会は、これらの下部社会の存在を許容しながらも、1つの社会としてのまとまりを作っていかなければならない定めにある。そのまとまりを作るための道具として、星条旗がある。「自由」「民主主義」というキーワードがある。米国民が日本人に比べて「民主主義」「ジャーナリズム」という言葉を熱く語るのはこのためだと思う。
そしてマスメディアもまた、米国を1つの社会としてまとめる機能を果たしてきた。
それなのにマスメディアが消滅し、人々がネット上で自分の関心事に関連する情報だけを入手すればどうなるのだろう。中国系米国人が今まで以上に、香港や中国本土の情報ばかりを入手し、米国の社会問題に無関心になればどうなるのだろう。米国社会、米国の民主主義は崩壊してしまうのではなかろうか―。サンスティーンさんは、こうした未来を危惧しているのだと思う。
また同じことに関心がある者同士が集まって、議論をすればどうなるか。自分にとって耳当たりのいい意見ばかりを聞いていると、自分の意見が正しいように思えてくる。さらに一段先の意見を言いたくなる。それも受け入れられる。これを繰り返すことで、議論が過激になり暴走する可能性があるというのだ。
インターネットの商業利用が始まったころは、世界中の人たちがネットを通じて意見交換できるようになる、というユートピアのような未来予測があった。ところが現状は、同じ意見のユーザー同士が集まって議論が過激になる例が散見される。中国での反日デモの背景にインターネットがあったという指摘がある。反日感情を持つ者同士がネット上で議論することで、過激な意見が続出し、ついには反日デモという過激な行動になってしまった、というのだ。
サンスティーンさんは、人々がネット上のこうした小宇宙に閉じこもっているのではなく、異なる意見を持つ人たちと議論することが必要であると主張する。検索技術が進化すればするほど、人々はネット上の小宇宙に閉じこもってしまう。この状況を打破する方策を考える必要がある、とサンスティーンさんは訴える。
どうすればいいのだろうか。サンスティーンさんは1つの例として、右寄りの意見のページを開こうとすれば、ポップアップウインドーが立ち上がり左寄りの意見のページを表示するように義務付ければどうか、と提案している。技術的にはもちろん可能だろうが、こうした義務付けが社会的に可能だろうか、わたしにはよく分からない。
この問題を「新聞がなくなる日」の著者である歌川令三さんと議論させていただいたことがある。歌川さんのご意見は、「今は過渡期。今後ネット上にいろんな小宇宙ができるが、その小宇宙の間に競争原理が働けば、また社会的つながりが出てくる。そして、いろんな人がそれをマーケットで評価するということは理論的にあり得る」というものだった。
この部分は、わたしもよく分からないというのが本音だ。ただ今後もマスメディア的な機能は残るのではないかと漠然と思っている。社会に参加したくても参加できないから、社会の共有の問題に関心がないのではなかろうか。自分の意見を社会に向けて言えるようになったら、自分の投票で社会が変わるという実感を得ることができるようになったら、人はだれでも社会の共有の問題に関心を抱くようになるのではなかろうか。
つまり「多くの人にとって必要な情報を流す」というマスメディア的な機能を残すカギは、一般市民が社会の舵取りにどれだけ参加できるか、一般市民の側にどれだけパワーが移行するのか、にかかっているように思う。
一般市民のエンパワーメントが進めば、共通の問題に興味を持つ人が増え、マスメディアの情報発信に対するニーズが再び高まると思う。
ただわたしが今後も生き残ると言っているのはマスメディア的な機能であり、既存のマスメディア企業が今後も安泰と言っているわけではない。新興ネット企業や有力ブロガー、市民ジャーナリズムなどがマスメディア的な機能を果たすようになる可能性も十分にあると思う。
脚注:
論駄な日々「マスメディアと公開フォーラム」
http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2005/04/post.html
サンスティーン,キャス(2003)石川幸憲(訳)『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
こう指摘したのは、シカゴ大学教授で憲法学者のキャス・サンスティーンさんだ。サンスティーンによると、情報の洪水の中から必要な情報を探し出してくる技術が発達することで、人々は自分の関心事に関連する情報だけを取得し、社会と問題意識を共有しなくなる可能性があるという。そして人々はネット上で同じ意見の者同士で集まり、議論することで、議論は過激になる一方だ、というのだ。
現在の主流のメディア環境では、マスメディア企業が「一般的に知っておかなければならないニュース、情報」や「多くの人が必要としているニュース、情報」を「幕ノ内弁当」的に並べて提供してくれる。このニュースの「幕ノ内弁当」を食している限り、社会人として見ず知らずの人とも会話できるし、投票を通じて社会を動かしていくこともできる。少なくとも理想論的には、そうしたことが可能と言っていいのかもしれない。
ところが、検索技術やフィルタリング技術などを使って、自分の関心事に関連する情報だけを取得していれば、関心事を共有しない人とは会話が成立しづらくなる。さらに言えば、何が社会の重要事項か分からなくなり、投票という形の政治参加さえ、うまくできなくなる。マスメディアの影響力が低下すれば、こういう未来になると、サンスティーンさんは危惧しているのだと思う。
多くの日本人にとって、サンスティーンさんのこの指摘はあまりピンとこないかもしれない。新聞を読まなくても、テレビのニュースを見なくても、日本の社会の一員として生活していく上で支障を感じることはない。民主主義が崩壊するとも思えない。社会が分断するとも思えない。ニュースを読まなくても、オレは日本人だし、その事実は変わらない。もともと政治には関心がない。自分の票で政治が変わるとも思えない―。そんな風に考える人が一定数いるような気がする。
わたしは人生の半分近くを米国で暮らした。日本での生活の経験から、上記のような日本人の感じ方も理解できる。また米国での生活の経験から、サンスティーンさんの意見にも納得するところがある。
言うまでもなく米国は他言語国家だ。英語は公用語なのだが、特に都市部には英語を片言しか話さない人が数多く住んでいる。わたしの住んでいたサンフランシスコは、人口の4分の1が中国系の住民だといわれる。
わたしの通った大学に、サンフランシスコのチャイナタウンで生まれ育った男がいた。米国生まれなのに、この男は大学になっても英語が片言しか話せず、留学生向けの英会話のクラスを受講していた。中国人の友人とだけつきあって、関心事は香港の芸能界のことだった。
米国社会の中においてチャイナタウンは、明らかに1つの社会を形成していた。
中国人社会だけではない。米国社会の中には、日本人社会、メキシコ人社会、黒人社会などが存在する。米国社会は、これらの下部社会の存在を許容しながらも、1つの社会としてのまとまりを作っていかなければならない定めにある。そのまとまりを作るための道具として、星条旗がある。「自由」「民主主義」というキーワードがある。米国民が日本人に比べて「民主主義」「ジャーナリズム」という言葉を熱く語るのはこのためだと思う。
そしてマスメディアもまた、米国を1つの社会としてまとめる機能を果たしてきた。
それなのにマスメディアが消滅し、人々がネット上で自分の関心事に関連する情報だけを入手すればどうなるのだろう。中国系米国人が今まで以上に、香港や中国本土の情報ばかりを入手し、米国の社会問題に無関心になればどうなるのだろう。米国社会、米国の民主主義は崩壊してしまうのではなかろうか―。サンスティーンさんは、こうした未来を危惧しているのだと思う。
また同じことに関心がある者同士が集まって、議論をすればどうなるか。自分にとって耳当たりのいい意見ばかりを聞いていると、自分の意見が正しいように思えてくる。さらに一段先の意見を言いたくなる。それも受け入れられる。これを繰り返すことで、議論が過激になり暴走する可能性があるというのだ。
インターネットの商業利用が始まったころは、世界中の人たちがネットを通じて意見交換できるようになる、というユートピアのような未来予測があった。ところが現状は、同じ意見のユーザー同士が集まって議論が過激になる例が散見される。中国での反日デモの背景にインターネットがあったという指摘がある。反日感情を持つ者同士がネット上で議論することで、過激な意見が続出し、ついには反日デモという過激な行動になってしまった、というのだ。
サンスティーンさんは、人々がネット上のこうした小宇宙に閉じこもっているのではなく、異なる意見を持つ人たちと議論することが必要であると主張する。検索技術が進化すればするほど、人々はネット上の小宇宙に閉じこもってしまう。この状況を打破する方策を考える必要がある、とサンスティーンさんは訴える。
どうすればいいのだろうか。サンスティーンさんは1つの例として、右寄りの意見のページを開こうとすれば、ポップアップウインドーが立ち上がり左寄りの意見のページを表示するように義務付ければどうか、と提案している。技術的にはもちろん可能だろうが、こうした義務付けが社会的に可能だろうか、わたしにはよく分からない。
この問題を「新聞がなくなる日」の著者である歌川令三さんと議論させていただいたことがある。歌川さんのご意見は、「今は過渡期。今後ネット上にいろんな小宇宙ができるが、その小宇宙の間に競争原理が働けば、また社会的つながりが出てくる。そして、いろんな人がそれをマーケットで評価するということは理論的にあり得る」というものだった。
この部分は、わたしもよく分からないというのが本音だ。ただ今後もマスメディア的な機能は残るのではないかと漠然と思っている。社会に参加したくても参加できないから、社会の共有の問題に関心がないのではなかろうか。自分の意見を社会に向けて言えるようになったら、自分の投票で社会が変わるという実感を得ることができるようになったら、人はだれでも社会の共有の問題に関心を抱くようになるのではなかろうか。
つまり「多くの人にとって必要な情報を流す」というマスメディア的な機能を残すカギは、一般市民が社会の舵取りにどれだけ参加できるか、一般市民の側にどれだけパワーが移行するのか、にかかっているように思う。
一般市民のエンパワーメントが進めば、共通の問題に興味を持つ人が増え、マスメディアの情報発信に対するニーズが再び高まると思う。
ただわたしが今後も生き残ると言っているのはマスメディア的な機能であり、既存のマスメディア企業が今後も安泰と言っているわけではない。新興ネット企業や有力ブロガー、市民ジャーナリズムなどがマスメディア的な機能を果たすようになる可能性も十分にあると思う。
脚注:
論駄な日々「マスメディアと公開フォーラム」
http://hatanaka.txt-nifty.com/ronda/2005/04/post.html
サンスティーン,キャス(2003)石川幸憲(訳)『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
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by tsuruaki_yukawa
| 2005-12-08 08:10
| 本の原稿