2004年 09月 11日
「ブログで建設的に議論する方法について」について |
あざらしサラダさんからトラックバックをいただいた。あざらしサラダさん、ありがとうございました。
わたしはこれまでマスコミ側の自己変革ばかり求めていたので、一般ユーザー側もコミュニケーション能力を高める必要があるという意見は非常に新鮮だった。
さて「建設的議論」という言葉を聞いて、最初に思い浮かべるのが「ジャーナリズム考現学」を主宰するhalberstamさんの議論の仕方だ。
このブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」もアクセス数が増え、いろいろな人から意見をいただくようになった。わたしの主張に賛同してくださるのは非常にありがたいが、反論してくださることも同様にありがたく思う。最もよく反論してくださるのがhalberstamさんだ。
halberstamさんは恐らく現役の新聞記者だと思う。現役の記者として、同じような問題意識は持っているものの、わたしと意見が対立することも多い。
たとえばわたしが「新聞社は個人情報管理会社になるべき」と書けば、「基本的に新聞社は報道の自由、表現の自由という理念によって統合されるべき組織であって、情報のストックよりもフローを重視すべきです。よって、個人情報をストックさせる組織には不向きだと思います。」と反論してくる。
わたしが「大衆の情報収集は確実にネット上に移行し続ける。新聞社は、紙だけに頼っていると経営難に陥る時代がくる可能性がある」と主張すれば、「情報の集め方、編集の仕方、配信の方法やスピード、事業の収益性がうまくかみ合えば、紙媒体も発展する余地はあると思います」と反論する。「グーグルニュースが記者の意識を変える」と主張すれば、「編集局の主たる出力先が新聞である限り、朝刊・夕刊の締め切りに合わせて情報を集めるスタイルは続きます」と反論してくる。
しかしわたしの人格を攻撃してくることはぜったいにない。それどころか、わたしの気分を損ねないように細かい気配りをみせてくれる。「ITの最先端を追う人には(中略)反論すると『あなたは技術がわかっていないから』と一人で勝ち誇ったようなことを言い始めて議論がかみ合いません」と反論する際には「湯川さんのblogではあまり感じませんが」と但し書きを入れてくれる。グーグルニュースの件で反論したあとには「コミュニティー事業については、まったく同感です。是非、実現させたいものですね」と別の主張に賛同してくれる。
一方、わたしがhalberstamさんの反論にさらに反論すると、それ以上は反論してこない。たとえ同意しなくてもわたしの意見を尊重してくれるのだ。
意見は異なっていても、相手の人格を尊重する。議論は勝つためにするのではなく、学ぶためにする。halberstamさんはこうした議論のルールを身につけておられるのだ。
ブログはイエスマンだけが集まるのが問題だという指摘がある。halberstamさんのような議論の仕方を身につけている人が増えれば、ブログでもっともっと建設的な議論ができるのではなかろうか。
ブログは優れたコミュニケーションツールであることは間違いない。しかしそのツールの可能性を最大限に引き出すには、われわれユーザーがツールを使いこなすだけの技量を持たなければならないのかもしれない。
「参加型ジャーナリズム」が社会的認知を得るためには、マスコミ側がこうした双方向コミュニケーションの扉を開くだけではなく、これに参加する一般ブログユーザーも節度あるコミュニケーションを行う必要がある、と私はいつも考えていた。
わたしはこれまでマスコミ側の自己変革ばかり求めていたので、一般ユーザー側もコミュニケーション能力を高める必要があるという意見は非常に新鮮だった。
さて「建設的議論」という言葉を聞いて、最初に思い浮かべるのが「ジャーナリズム考現学」を主宰するhalberstamさんの議論の仕方だ。
このブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」もアクセス数が増え、いろいろな人から意見をいただくようになった。わたしの主張に賛同してくださるのは非常にありがたいが、反論してくださることも同様にありがたく思う。最もよく反論してくださるのがhalberstamさんだ。
halberstamさんは恐らく現役の新聞記者だと思う。現役の記者として、同じような問題意識は持っているものの、わたしと意見が対立することも多い。
たとえばわたしが「新聞社は個人情報管理会社になるべき」と書けば、「基本的に新聞社は報道の自由、表現の自由という理念によって統合されるべき組織であって、情報のストックよりもフローを重視すべきです。よって、個人情報をストックさせる組織には不向きだと思います。」と反論してくる。
わたしが「大衆の情報収集は確実にネット上に移行し続ける。新聞社は、紙だけに頼っていると経営難に陥る時代がくる可能性がある」と主張すれば、「情報の集め方、編集の仕方、配信の方法やスピード、事業の収益性がうまくかみ合えば、紙媒体も発展する余地はあると思います」と反論する。「グーグルニュースが記者の意識を変える」と主張すれば、「編集局の主たる出力先が新聞である限り、朝刊・夕刊の締め切りに合わせて情報を集めるスタイルは続きます」と反論してくる。
しかしわたしの人格を攻撃してくることはぜったいにない。それどころか、わたしの気分を損ねないように細かい気配りをみせてくれる。「ITの最先端を追う人には(中略)反論すると『あなたは技術がわかっていないから』と一人で勝ち誇ったようなことを言い始めて議論がかみ合いません」と反論する際には「湯川さんのblogではあまり感じませんが」と但し書きを入れてくれる。グーグルニュースの件で反論したあとには「コミュニティー事業については、まったく同感です。是非、実現させたいものですね」と別の主張に賛同してくれる。
一方、わたしがhalberstamさんの反論にさらに反論すると、それ以上は反論してこない。たとえ同意しなくてもわたしの意見を尊重してくれるのだ。
意見は異なっていても、相手の人格を尊重する。議論は勝つためにするのではなく、学ぶためにする。halberstamさんはこうした議論のルールを身につけておられるのだ。
ブログはイエスマンだけが集まるのが問題だという指摘がある。halberstamさんのような議論の仕方を身につけている人が増えれば、ブログでもっともっと建設的な議論ができるのではなかろうか。
ブログは優れたコミュニケーションツールであることは間違いない。しかしそのツールの可能性を最大限に引き出すには、われわれユーザーがツールを使いこなすだけの技量を持たなければならないのかもしれない。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-09-11 23:59