切り込み隊長に物申す |
わたしは「日本人は議論が嫌いなのでブログは普及しない。ネット上の議論が世論を形成することもない」という意見に対する反論するために前回のエントリーを書いた。
わたしの主張は、ネットの世論はリアル社会の世論に融合するだろうというもの。ブログを読むことの多い読者にとっては当たり前過ぎる主張だと思う。ところがリアルの社会ではネットの議論は読むに値しないという見方がまだまだ根強い。わたしのブログの読者にはネット初心者も多くおられるので、あえてこの分かり切った主張を行った。
切り込み隊長も「社会のなかで、一般的にネットを利用する層が増えてくれば母数が確保され、確率論的に情報ソースとしてのインターネットもオーソライズされてメディアとしての価値を持ち始めるようになる」と言う。わたしが言いたいのもそこのところなので、議論にもならない。隊長の言うように「凄くどうでもいい議論」だ。
しかし隊長がせっかく絡んできてくれたのだ。枝葉末節部分で恐縮だが、名刺代わりに隊長に絡み返したいと思う。
>ネット上で話題になったことは、マスコミが取り上げない限りリアルの社会で「話題」になることがほとんどない。
これは筆者が読んでいるマスコミなるものが偏っているように思える。確かに新聞報道などでネット発のものはあまりみかけないが、一般週刊誌や女性誌、車などの専門誌は特集ほか記事の構成においてネット発の情報なしには書けないものが増え始めている。
夕刊紙にいたっては、ネットで掲載された記事を元に取材しているものまである。
わたしはマスコミがネット上の話題を取り上げていない、と言っているのではない。日本の場合、マスコミが取り上げない限りネット上の話題が社会に知れ渡るというケースはまだまだ少ないのではないか、と言っているのだ。
>ブログのエントリーが引き金となり株価が動いたり、今回の大統領選では多くの一般市民がマスコミだけでなくブログからも情報を取得していたからだ。
ブログが流行する前から、インターネットは世論形成機能がある程度備わっていて投票行動に影響を及ぼしていることは予想されている。これは日米に限らず台湾やスペインなどでも広く見られる現象であるが、過大評価はできなくても影響が乏しいという判断にはならないであろう。
日本では、ブログの情報で株価が動いたという話をわたしはまだしらない。米国では今回の大統領選で有力ブロガーに記者証を与えて党大会を取材させていた。候補者討論会のテレビ中継中に両党の選挙対策本部は、有力ブロガーに情報を送り続けネット上の代理戦争を仕掛けていた。情報伝搬を目的にブロガーに記者証を与えたり情報を与えたりという話を、まだ日本国内で聞いたことがない。日米を比較して米国のネット世論のほうが影響力があると判断してもいいのではないだろうか。
> なぜ日米にこのような格差があるのだろうか。1つには歴史的の違いがあるだろう。米国ではインターネットは10年近く前から、一定料金で使い放題。日本では、使い放題のブロードバンド利用者が増え始めてまだ1,2年。ようやく多くの日本人の生活の一部になり始めたというところだ。
これは間抜けな誤認なので特に言うべきことなし。人口比の常時接続環境やネット接続時間の統計でも見てもらえればそれで解決。
一定料金で使い放題というのは、別の言い方をすれば定額制で常時接続環境ということ。定額制で常時接続への移行に伴う最大の影響は、ネット接続時間の増加といわれる。米国では10年近く前から定額制の常時接続環境が整っていた。日本では、ここ1、2年。米国と比較すれば、日本のネット利用の形に変化が現れ始めたばかりだと言ってもいいのではなかろうか。
質の高い議論が行われているからその議論が投票行動に影響を及ぼすという考え方が誤り。
そういう考え方を示したことはない。質の高い議論が増えれば、「ネットの議論は質が低い。まじめに考慮するに値しない」という一般的な見方に変化が現れるのではないか、というのがわたしの主張だ。投票行動のことには触れていない。
日本は、老人世代が実権を握っている、だから若者中心のネット文化は社会的な影響力を持ち得ないというのは単なる世代間論争でしかなくあまり意味を持たない。(中略)むしろ日本で問題となるのはインターネット環境の都市・地方格差であって、オーソリティの問題は比較的軽微であると思われる。
ここは認識の違い。しかし隊長の意見を尊重したい。
特定の社会的立場にいる雇われがネットで実名を晒して個人の立ち位置で言論活動をして社会的に認められるはずがないではないか。
どうしてだろう。わたしの理解力不足だろうが、隊長の主張が分からない。
> ということは、あと何年かしてネットを使う層が社会の実権を握り始めたら、ネットの「世論」が社会の世論に融合し始めるのではないだろうか。
それは厳密に言うなら「融合」するかしないかの問題ではなく、単なる割合の問題だ。社会のなかで、一般的にネットを利用する層が増えてくれば母数が確保され、確率論的に情報ソースとしてのインターネットもオーソライズされてメディアとしての価値を持ち始めるようになる。
これはその通り。「融合」という仰々しい言葉を軽々しく使ったことを反省。
穿った言い方になるが、ネットがいかに盛り上がろうと新聞やテレビの報道との組み合わせで成立する議論場としての機能になることは読めてもネットが単独で「新しい形のジャーナリズム」になるというのは夢持ちすぎである。
予想しうる近未来においては、その通りだと思う。しかしブラウザ登場以前に今のネットの状況を予測できる人はいなかった。ちょっとした技術の登場で、環境は大きく変わる可能性がある。ほんの10年先も予測できないのが現状だ。中長期的に考える上では、新しい形のジャーナリズムの可能性を否定しないほうが、わたしはいいと思う。
広告をベースにした既存メディアの場合は特にそうだが、ネットの特性であるインタラクティブ性を認めることはそのまま従来の媒体価値を否定する可能性が高まるわけだ。既存媒体は読者の声を必要としない。適当に「声」とかいって読者欄で都合のいい意見を取り上げることで媒体のあり方を際立たせ、逆にそれが特定の思想を持つ読者の購買意欲となっているわけだから、ネットが新聞に置き換わるというのはちょっと考えづらい。
オピニオン誌はそうだろう。しかし新聞の場合は一部全国紙を除いて、主義主張よりも、「コミュニティーの声を吸い上げて加工し、もう一度コミニティーに返す」ということに媒体価値がある場合が多いと思う。その媒体価値は、実はネット上で展開可能なのだと思う。
特に、一部で参加型ジャーナリズムってのはどうよという話がでがちだが、ネットでは飯が喰えないというただ一点においてありえない。取材が成り立たなければジャーナリズムとはいえないと思うので。
これも現状においてはその通りだが、未来永劫ということにはならないだろう。オンライン広告の市場は上向き始め、ネットはテレビ以上の広告媒体になるという見方も説得力を持ち始めている。「ネットでは喰えない」という決め付けは危険だと思う。
また「取材が成り立たなければジャーナリズムとはいえないと思うので」という意見は、ジャーナリズムの定義の問題。このブログでも過去に何度も議論になっている。わたしは取材がなければ成り立たない種類のジャーナリズムもあるが、暴力的な権力に対して公明公正な議論で対抗していくことも立派なジャーナリズムだと考えている。大戦前に必要だったのは取材型のジャーナリズムではなく、議論型のジャーナリズムではなかろうか。そういう意味で、ネット上の議論はジャーナリズムの1つの形に成りうると、わたしは思う。
ということで、「凄くどうでもいい議論」で絡み返してしまった。切り込み隊長とは、より核心の部分で意見の分かれる議論をしてみたい。ぜひいろいろと「絡んで」きていただきたい。そのうち、こちらからも「絡んで」いきたいと思う。