2004年 11月 17日
超どうでもいい議論の続き |
寄せられたコメントを読むと、切込隊長とわたしのバトルを期待している向きもあるようだ。誤解されているようなので言っておくが、当事者同士は実はこの議論を「超どうでもいい議論」と考えている。バトルを期待している読者には申し訳ないが、結論を求めて議論しているわけではない。
わたしは「参加型ジャーナリズム」という遠い未来の夢を語り、隊長は実体験に基づく現実論を説いている。「現状はそうかもしれないが、未来はこうだろう」「確かに未来はそうかもしれない。でも現実は違う」「現実のことは分かった。でも未来はこうではないと言い切れるのか」・・・。一見いつまでたっても議論は終らないように見えるが、それぞれ違うタイムスパンの話をしているだけで、時間軸をそれほど厳密に設定しなければ、実は既に合意に達しているわけだ。
ではなぜ議論をするのか。
隊長は「私は彼の著作に目を通しているのと、一連のヲチで恐らくこのあたりを言いたいのだろうということにめぼしらしきものはついている」と言う。その通り、彼はわたしの主張をほぼ完璧に理解している。ということは、この議論の目的はわたしが彼の主張を理解するところにある。わたしが理想論を展開する中で、それが机上の空論にならないように、隊長は実体験に基づく現状を説明してくれているわけである。
わたしには隊長ほどのネットワーカーとしての実体験がないわけだから、隊長の主張の真偽が分かるわけもない。だが、隊長の主張は長年の実体験に基づいているものだから、わたしとしてはその実体験に敬意を払い主張を尊重せざるを得ないと思う。
しかし議論の成果がそれだけだと1時間もかけて反応してくれた隊長に申し訳ない。そこで、今後自分が熟考したいと思った隊長の論点を幾つか挙げておきたい。
▼利得のないところに情報は流れてこない
▼論評面においてもネットは必ずしも質の高い論評を行う雑誌のコンペティターとはなり得ない。本当に価値のある情報は無料では提供されないという情報工学的な見解もさることながら、一定の思想背景に基づいた読者の価値というのは必ず発生するからである。
▼アメリカの場合は記名ブロガーを利用したネット世論の喚起を方法論として利用したが、日本の場合は匿名掲示板やヤフー掲示板などの動員力を使った圧力行為を教唆するという形で対応しており、これはその国のかたちというべきローカルラグであると認識している。
▼日米間の「格差」という点についてブロードバンド環境が与えた影響はあまりないものと思われ、ただそのブロードバンド環境で利用者が何をしているかという嗜好の違いに依拠する問題であると判断する。
▼まじめに考慮する対象としての論評は、即ち政治的行動に帰結しなければおかしい。
以上5点に加え、参加型ジャーナリズムという表現についてももう一度考え直してみたいと思う。同じことを主張する人の間でもこの「ジャーナリズム」という表現に抵抗のある人がかなりいる。夢を語るには分かりやすい言葉なのだが、別の表現にした方がいいのだろうか。
最後にわたしの信念をもう一度述べたい。議論は、そこから自分が学ぶため、また相手の学びを手助けするためにするものである。その目的以外の議論は、単なる時間の無駄だと思う。
わたしは「参加型ジャーナリズム」という遠い未来の夢を語り、隊長は実体験に基づく現実論を説いている。「現状はそうかもしれないが、未来はこうだろう」「確かに未来はそうかもしれない。でも現実は違う」「現実のことは分かった。でも未来はこうではないと言い切れるのか」・・・。一見いつまでたっても議論は終らないように見えるが、それぞれ違うタイムスパンの話をしているだけで、時間軸をそれほど厳密に設定しなければ、実は既に合意に達しているわけだ。
ではなぜ議論をするのか。
隊長は「私は彼の著作に目を通しているのと、一連のヲチで恐らくこのあたりを言いたいのだろうということにめぼしらしきものはついている」と言う。その通り、彼はわたしの主張をほぼ完璧に理解している。ということは、この議論の目的はわたしが彼の主張を理解するところにある。わたしが理想論を展開する中で、それが机上の空論にならないように、隊長は実体験に基づく現状を説明してくれているわけである。
わたしには隊長ほどのネットワーカーとしての実体験がないわけだから、隊長の主張の真偽が分かるわけもない。だが、隊長の主張は長年の実体験に基づいているものだから、わたしとしてはその実体験に敬意を払い主張を尊重せざるを得ないと思う。
しかし議論の成果がそれだけだと1時間もかけて反応してくれた隊長に申し訳ない。そこで、今後自分が熟考したいと思った隊長の論点を幾つか挙げておきたい。
▼利得のないところに情報は流れてこない
▼論評面においてもネットは必ずしも質の高い論評を行う雑誌のコンペティターとはなり得ない。本当に価値のある情報は無料では提供されないという情報工学的な見解もさることながら、一定の思想背景に基づいた読者の価値というのは必ず発生するからである。
▼アメリカの場合は記名ブロガーを利用したネット世論の喚起を方法論として利用したが、日本の場合は匿名掲示板やヤフー掲示板などの動員力を使った圧力行為を教唆するという形で対応しており、これはその国のかたちというべきローカルラグであると認識している。
▼日米間の「格差」という点についてブロードバンド環境が与えた影響はあまりないものと思われ、ただそのブロードバンド環境で利用者が何をしているかという嗜好の違いに依拠する問題であると判断する。
▼まじめに考慮する対象としての論評は、即ち政治的行動に帰結しなければおかしい。
以上5点に加え、参加型ジャーナリズムという表現についてももう一度考え直してみたいと思う。同じことを主張する人の間でもこの「ジャーナリズム」という表現に抵抗のある人がかなりいる。夢を語るには分かりやすい言葉なのだが、別の表現にした方がいいのだろうか。
最後にわたしの信念をもう一度述べたい。議論は、そこから自分が学ぶため、また相手の学びを手助けするためにするものである。その目的以外の議論は、単なる時間の無駄だと思う。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-11-17 02:07