団藤さん、ブログは今までの媒体と違うのでは |
わたしが愛読する記者ブログ「ブログ時評」のように次のような一文があった。
ブロガーの皆さんの多くは「これはニュースになる」との感触をまだ知らない。
さてどういう意味でおっしゃってるのだろうか。ブロガーの多くはニュースの価値判断ができない、とおっしゃってるのだろうか。もしそうおっしゃってるのなら主張したい点が幾つかある。
1つは、それではわれわれマスコミはニュースの価値判断ができているのだろうか、ということ。
政治部、社会部のニュースの価値判断は時代にそれほど左右されないのかもしれないが、わたしが担当する産業、企業ニュースの分野は何がニュースなのかは非常に分かりづらくなってきている。わたしは一般新聞紙系メディアではめずらしく「IT専門記者」を名乗っている。そのIT関連のニュースに関しては、一般紙系メディアの価値判断に首を傾げることがよくある。
わたしのように業界の外から見ている人間でもそうなのだから、業界の中にいる人たちはなおさらそうだろう。実際、少なくとも自分の業界や専門分野に関しては新聞記事はあてにならないという意見をよく耳にする。
産業界がますます複雑化する中で、マスコミこそ何がニュースなのか分からなくなってきているのではなかろうか。分からないので仕方なく、だれが見てもニュースと分かりそうな企業買収などのネタばかり追っているような気がする。ほかにも取り上げるべきことはあるかもしれないのに・・・。
でもまあこの1点目の話は別にどうでもいいと思っている。というのは時代が変化する中で、こうした議論自体、無意味になりつつあると思うからだ。
2点目に主張したいことは、その「時代の変化」に関係するものだ。「何がニュースか」と判断すること自体が、時代にそぐわなくなりつつあるのではないかということだ。
今までは、紙面が限られていた。放送時間が限られていた。電波が限られていた。これらの制限が存在するので、より多くの人に必要な情報、最大公約数の必要情報は何かを常に考えなければならなかった。「何がニュースになるのか」ということはそういうことだったのではなかろうか。
ところがインターネットの登場や電波技術の向上で、これらの媒体の制限は大幅に取り除かれてきている。最大公約数の情報ニーズに合う情報だけではなく、より細分化された情報ニーズに応えることもできるようになってきているわけだ。
ジャーナリズムが「力でねじ伏せようとする権力側に対し、公明公正な議論で対抗すること」であるならば、権力は国家権力に限ったことではない。自分の住む地域社会や自分の会社内での言論活動もジャーナリズムになりえるはずだ。読者は数人でもいい。その言論活動に賛同し小さな権力に対抗する力を形成できたとしたら、それはそれですばらしいことだと思う。
だからわたしは、多くのブログが今のマスコミのニュースの価値判断基準に合わない情報を発信していたとしても、何ら問題はないと思う。第一、多くのブロガーがジャーナリストを目指しているわけでもないし、ジャーナリズムを実践しようとしているわけでもない。ただブログの読者が、その言論活動をジャーナリズムと判断することもあるというだけだと思う。
それに一次情報的な要素が少なくてもいいと思う。インターネットは本来コミュニケーションのツールだ。そのネットの特性をもっとも多く備えているツールの一つが、ブログだ。これまでの個人ホームページやメルマガとはそこが違う。ホームページやメルマガは、どちらかといえば紙の媒体などの一方通行の性質を受け継いでいる。ブログはコミュニケーションの性質をより強く持っているので、一次情報より議論の方が多くなるのは当然。紙の媒体の尺度でブログを測ること自体がおかしいのではなかろうか。
3つ目の主張は、マスコミ業界全体に対するものだ。上に述べたように、これまでの制限の多くは今まさに取り除かれようとしている。最大公約数の情報だけを流している必要がなくなりつつあるわけだ。もちろんこれまで通り最大公約数の情報ニーズを満たすことも重要だが、もっと細かな情報ニーズにも応えることのできる仕組み作りに取り組むべきだ。そこに社会的意義もあるし、ビジネスチャンスもあると思う。マスコミュニケーションに加えてマイナーコミュニケーションまで効率よく手掛けることができたなら・・・。ネットは新聞社を殺さずに、ますます繁栄させることになると思う。