2005年 03月 13日
参加型に対する疑問:伝えるべき情報が伝わらなくなる |
以前も紹介した江川紹子さんのホリエモンインタビューから抜粋。
記事をアクセス数でランク付けしてしまえば、報道として伝えるべき情報が伝わらなくなるのではないか、というのが江川さんの疑問だ。
このことに関して、筑紫さんも質問された。ホリエモンは、伝えるべき情報だと判断する人が多ければ伝わる、というように答えていた。
ホリエモンの伝えようとしているところをわたしなりに解説すれば、日本の社会は、もはや小学生の授業ではなく、大学生のゼミのレベルに達している、ということではなかろうか。先生が子供たちに「伝えるべき情報」を丁寧に教えてあげなくとも、学生は自ら図書館に出向きいろいろな情報を入手してくる・・・。伝える側は読者を、受け手側をもっと信頼してもいい、ということを言いたいのではないか、と思う。
またこれとは別にわたしは、予想できる近未来においてマスメディアというものはなくならないので、マスメディアはこれからも伝えるべきことを伝えていくのだろうと思う。そしてそのマスメディアを補完する形でネットが存在するようになるのだと思う。このことに関しては、別のエントリーで考えてみたい。
またこの問題とは論点が少し違うのだが、スポンタ中村さんが興味深い見解を述べているので紹介したい。
民主主義とはいえ、実際にはこれまでは多くの人が政治に参加できなかった。だから告発があり、糾弾が必要だった。多くの市民、ジャーナリズムは野党だったわけだ。
しかしこれからはネットを通じ政治も参加型になる。少なくとも意見を発信しやすくなる。そうなれば多くの人が当事者意識を持つようになり、告発、糾弾よりも、建設的な解決策の提案の方が重要性を増すようになる・・・。ということなのだろうか。
追記:みんさんのコメント、トラックバックを読ませていただいて、資本主義と社会主義の論争に似ているなと感じました(違うかな?)。市場経済至上主義だと、必要なところに必要な物財が届かなくなる、というのが社会主義者の資本主義批判のような・・・。それに対して資本主義者は、物財の分配は人の手に任せるより市場に任せたほうが公平だ、と反論。世界の政治では、社会主義は実質破綻したけれど、その一方で米国流の市場経済の行き過ぎにも疑問の声が上がっている。
参加型ジャーナリズムの世界でも、ベースは参加型による市場主義的なものにしておいて、ただそこで重要な情報が切り捨てられないような仕組みも併存する、というのが理想になるのではないかな、とふと思いました。みなさん、どう思われますか?引き続きコメント、トラックバックお願いします。
人気のある記事は大きく扱い、そうでないものは載らない。その扱いは、もっぱらサイトの読者の人気ランキングにより、新聞社の価値判断は一切入れない。
「人気がなければ消えていく、人気が上がれば大きく扱われる。完全に市場原理。我々は、操作をせずに、読み手と書き手をマッチングさせるだけ」
そうなれば、確かに新聞社の意図的な情報操作はできなくなる。その一方で、埋もれていた記事の発掘、少数者の声などは表に出てこない。が、堀江氏は「いいじゃないですか、それで。そういうもんじゃないですか、情報って」「読者の関心が低いゴミみたいな記事を無理矢理載せたってしょうがない」と頓着しない。(中略) メディアがあえて報じていくことで、曲がりなりにも(現実にそれが十分にできているかは疑問だが)政治を監視する機会は保たれる。
それがなければ、一般の人たちがなんだか分からないうちに、大事なことが次々に決められていく、ということになりはしないか。
あるいは、イラク、アフガニスタン、アフリカ諸国といった外国の情報は、普段は気にもとめずに生活しているけれど、そういうことは知らなくてもいい、のだろうか。
普段、気がつかなかった事柄を、新聞で読んで知るという機会もなくなる。それで、生活するには困らないかもしれないが、人間性や心を豊かにする機会を減らしてしまうことになりはしないか。
また、"志"や"矜持"といったものを、すべて否定してしまうのには、私は抵抗を感じる。確かにそれは、「思い上がり」や「自意識過剰」に結びつく危険性がある
けれど、様々な圧力、障害、誘惑などに直面することの多いこの仕事の中で、報道する者の"良心"が、そういう困難中でも真実を明らかにする原動力になることだって、少なくないのだ。
記事をアクセス数でランク付けしてしまえば、報道として伝えるべき情報が伝わらなくなるのではないか、というのが江川さんの疑問だ。
このことに関して、筑紫さんも質問された。ホリエモンは、伝えるべき情報だと判断する人が多ければ伝わる、というように答えていた。
ホリエモンの伝えようとしているところをわたしなりに解説すれば、日本の社会は、もはや小学生の授業ではなく、大学生のゼミのレベルに達している、ということではなかろうか。先生が子供たちに「伝えるべき情報」を丁寧に教えてあげなくとも、学生は自ら図書館に出向きいろいろな情報を入手してくる・・・。伝える側は読者を、受け手側をもっと信頼してもいい、ということを言いたいのではないか、と思う。
またこれとは別にわたしは、予想できる近未来においてマスメディアというものはなくならないので、マスメディアはこれからも伝えるべきことを伝えていくのだろうと思う。そしてそのマスメディアを補完する形でネットが存在するようになるのだと思う。このことに関しては、別のエントリーで考えてみたい。
またこの問題とは論点が少し違うのだが、スポンタ中村さんが興味深い見解を述べているので紹介したい。
ホリエモンがメディアのトップになったら、人気取りの記事ばかりになって、報道本来の目的である「告発」がなされなくなる。と、岩見隆夫氏(元毎日新聞)が発言していた。
私はこの発言に、アンシャンレジーム(ふるめかしい)なジャーナリズム意識・ジャーナリストの矜持とでもいうものを感じました。
前世紀。メディアはインタラクティブでなかった。
新聞は、政治や行政の外にあり、告発や糾弾することでしか、世の中に影響力を行使することはできなかった。
だから、野党的な立場で発言することしか、自らの存在価値を見出すことができなかった。
しかし、新聞が行なう告発や糾弾は、反発を呼び、政治や行政が反省し自らの行為を修正していくということはなかなか行なわれず、裁判が起きたりや別組織の圧力などで担当者が処分され、事態を沈静化することばかりに主眼が置かれ、問題の根本的解決がはかられることはまれであった。
21世紀。メディアはインタラクティブになりつつある。
無名の個人が発言することは少ないにしても、さまざまなメディアが行なうアンケートなどによって、民意が世の中に知れ渡ってくる。そうなると、政治も行政もそういう意見を無視できなくなる。
つまり、21世紀型のメディア(あえて新聞とはいわない…)は、告発や糾弾がメディアの究極の目的などと考えるジャーナリストというのは、時代遅れだということになる。
情報のリリースにあたっては、事象を糾弾するのではなく、問題の構造を紹介し、問題の現場にいる人間の辛さを理解したうえで、考えうる解決策を提示しその中でのベストな改善策を世の中とともに探っていく、問題の解決を図っていくことだと思う。
与党的なジャーナリズムとでも言うのだろうか…。
民主主義とはいえ、実際にはこれまでは多くの人が政治に参加できなかった。だから告発があり、糾弾が必要だった。多くの市民、ジャーナリズムは野党だったわけだ。
しかしこれからはネットを通じ政治も参加型になる。少なくとも意見を発信しやすくなる。そうなれば多くの人が当事者意識を持つようになり、告発、糾弾よりも、建設的な解決策の提案の方が重要性を増すようになる・・・。ということなのだろうか。
追記:みんさんのコメント、トラックバックを読ませていただいて、資本主義と社会主義の論争に似ているなと感じました(違うかな?)。市場経済至上主義だと、必要なところに必要な物財が届かなくなる、というのが社会主義者の資本主義批判のような・・・。それに対して資本主義者は、物財の分配は人の手に任せるより市場に任せたほうが公平だ、と反論。世界の政治では、社会主義は実質破綻したけれど、その一方で米国流の市場経済の行き過ぎにも疑問の声が上がっている。
参加型ジャーナリズムの世界でも、ベースは参加型による市場主義的なものにしておいて、ただそこで重要な情報が切り捨てられないような仕組みも併存する、というのが理想になるのではないかな、とふと思いました。みなさん、どう思われますか?引き続きコメント、トラックバックお願いします。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-03-13 01:14

