2005年 03月 19日
参加型に対する疑問:既存メディアの今後の役割 |
市民ジャーナリズムと既存メディアの関係を決定するのは、一般市民が既存メディアのどの部分に不満を抱いているのか、だと思う。
韓国では既存メディアが保守一辺倒だったので、革新派の若者がオーマイニュースというネットメディアを支持したといわれる。米国で政治系ブログに人気が高まり政治系ブロガーに記者証が与えられるようになったのは、既存メディアの政治報道に対する不信感があるからだろう。米国のブログを読んでいると、既存メディアは体制や大企業をもはや批判できなくなっていると考えている人が多いように思う。
英国在住の小林恭子さんは、英国メディアは多彩な視点を既に展開しているので英国では市民参加型ジャーナリズムが育ちにくいのではないかと分析されている。
それでは日本国民は日本の既存メディアのどの部分に満足し、どの部分に不満足なのだろうか。
まずわたし自身のことを言わせてもらえれば、毎日新聞社会部の渡辺雅春記者が携わったような「旧石器発掘ねつ造」報道や北海道新聞の高田昌幸記者の北海道警察の裏金問題報道などの調査報道には敬意を抱いている。「プロのジャーナリストでなければできないのか」のエントリーのコメント欄にも、渡辺記者の「旧石器発掘ねつ造」報道に敬意を表するコメントがあった。
反対にわたしは、発表文をそのまま使っているような報道をほとんど評価しない。
前出エントリーのコメント欄を見ると、既存メディアの評価できない面として専門情報を挙げる方が何人かいた。継続性や情報量ではネットの方が既に上、という意見もあった。
一方で評価できるのは、記事の安定供給という面という意見があった。現時点では、既存メディアの取材力の方が優れているという声もあった。特にライブドアPJとは比較にならないほどレベルが違うという感想もあった。
このほか「ブログは感想、解説ばかりで、一次情報が少なすぎる。一次情報の多さでは、既存メディアの方が圧倒的に上」という意見もよく耳にする。「既存メディアが報じているかどうかを、その情報の真偽の判断基準にする人が多い」という既存メディアの情報の権威付けの役割を指摘する声もある。
またスキャンダル続きのNHKに愛想をつかした人でも、地震情報はNHKで確認したりしている。つまり多かれ少なかれ、だれもが既存メディアに対し満足している部分、不満足な部分があるのではなかろうか。
こうした人々が評価する部分の仕事は、これからも既存メディアが担うことになり、評価しな部分の仕事は市民ジャーナリズムに取って代わられるような気がする。また市民ジャーナリズムがうまく機能しない部分を、既存メディアが補完するようになるとも思う。市民ジャーナリズムと既存メディアは、相互に補完し、補完される関係になるのではないか、と思っている。
既存メディアが評価される部分の仕事に対しては、これからも対価が支払われ続けると思う。対価の支払われ方については、また別のエントリーで考えてみたい。また技術革新も市民ジャーナリズムと既存メディアのあり方に影響を与える。このことも別のエントリーで考えてみたい。
韓国では既存メディアが保守一辺倒だったので、革新派の若者がオーマイニュースというネットメディアを支持したといわれる。米国で政治系ブログに人気が高まり政治系ブロガーに記者証が与えられるようになったのは、既存メディアの政治報道に対する不信感があるからだろう。米国のブログを読んでいると、既存メディアは体制や大企業をもはや批判できなくなっていると考えている人が多いように思う。
英国在住の小林恭子さんは、英国メディアは多彩な視点を既に展開しているので英国では市民参加型ジャーナリズムが育ちにくいのではないかと分析されている。
アメリカでは、ホワイトハウスのブリーフィングにもブロガーが入った、と最近ニュースになったが、イギリスでは、ブログはまだそれほど大きな動きにはなっていない。特に、日本で花開いている個人のブログも大きくは広まっていない。
何故イギリスでブログがアメリカ型、あるいは日本型のように流行にならないのか?
あくまで私見、推測だが、アメリカ型のような、メイン・ストリームで出ている議論とは、違った点から物事を見るという形でのブログ・ジャーナリズムで言うと、イギリスでは既存のメディアが既に「他の視点」を提供している、という要素があるようだ。まず、BBCが英国最大の公共放送機関として、様々な視点を紹介する番組を提供している。テレビの討論番組などで人々が思い思いの意見を述べる機会も多い。商業放送(といっても、衛星放送以外は公共放送となる)が、BBCの番組に挑戦するような様々な時事番組、ドキュメンタリー、参加番組を放映している。
日本の朝刊紙にあたる新聞は、中立であることを目標としておらず、それぞれ独自の論の展開をするので、これもまた、読者が様々な視点に触れて自分自身の意見を形作るのに役立つ。
日本型のブログがカバーする領域の中で、裏の話、本音、悪口も含めた言いたいことを言う・・といった内容の部分は、大衆紙と呼ばれるタブロイド紙がカバーしている。
ブロガー同士がつながる・・・といったコミュニティーの部分はどの英メディアでもカバーされないことになるが、この部分のニーズが出て広がるのか、あるいは既に存在しているメディア報道をさらに深くするための動きが出てくるのか、この先は、私自身、つかめていない。
いろいろなメディア関係者から聞いたり、コメントを読んだりする限りでは、アメリカ型ブログ・ジャーナリズム(既存のメディアが扱っていない真実を明るみに出す)の必要性、緊急性を、感じている人は、少ないようだ。ブログで暴露されるような真実、事実だったら、ネタを買ってくれるタブロイド紙に売るか、競争の激しい既存メディアの誰かがもう既に報道している、ということのようだ。
それでは日本国民は日本の既存メディアのどの部分に満足し、どの部分に不満足なのだろうか。
まずわたし自身のことを言わせてもらえれば、毎日新聞社会部の渡辺雅春記者が携わったような「旧石器発掘ねつ造」報道や北海道新聞の高田昌幸記者の北海道警察の裏金問題報道などの調査報道には敬意を抱いている。「プロのジャーナリストでなければできないのか」のエントリーのコメント欄にも、渡辺記者の「旧石器発掘ねつ造」報道に敬意を表するコメントがあった。
反対にわたしは、発表文をそのまま使っているような報道をほとんど評価しない。
前出エントリーのコメント欄を見ると、既存メディアの評価できない面として専門情報を挙げる方が何人かいた。継続性や情報量ではネットの方が既に上、という意見もあった。
一方で評価できるのは、記事の安定供給という面という意見があった。現時点では、既存メディアの取材力の方が優れているという声もあった。特にライブドアPJとは比較にならないほどレベルが違うという感想もあった。
このほか「ブログは感想、解説ばかりで、一次情報が少なすぎる。一次情報の多さでは、既存メディアの方が圧倒的に上」という意見もよく耳にする。「既存メディアが報じているかどうかを、その情報の真偽の判断基準にする人が多い」という既存メディアの情報の権威付けの役割を指摘する声もある。
またスキャンダル続きのNHKに愛想をつかした人でも、地震情報はNHKで確認したりしている。つまり多かれ少なかれ、だれもが既存メディアに対し満足している部分、不満足な部分があるのではなかろうか。
こうした人々が評価する部分の仕事は、これからも既存メディアが担うことになり、評価しな部分の仕事は市民ジャーナリズムに取って代わられるような気がする。また市民ジャーナリズムがうまく機能しない部分を、既存メディアが補完するようになるとも思う。市民ジャーナリズムと既存メディアは、相互に補完し、補完される関係になるのではないか、と思っている。
既存メディアが評価される部分の仕事に対しては、これからも対価が支払われ続けると思う。対価の支払われ方については、また別のエントリーで考えてみたい。また技術革新も市民ジャーナリズムと既存メディアのあり方に影響を与える。このことも別のエントリーで考えてみたい。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-03-19 06:56