2005年 09月 26日
「見る、聞く、読むメディア」から「つながるメディア」へ |
▼「見る、聞く、読むメディア」から「つながるメディア」へ
広告がこれまでの概念とは異なったものになる一方で、メディアもこれまでの概念とは異なるものになるだろうとわたしは考えている。
ここまでは、メディアを見る物、聞く物、読む物という概念で語ってきた。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、既存メディアは、見て、聞いて、読む物だからだ。
しかし、メディアは今後も「見て、聞いて、読む物」なのだろうか。
もちろん、メディアのそうした部分は今後も残るだろう。ただそうした部分に新しいメディアの形が追加されるのではないかと考えている。
メディアという言葉は本来、「媒体」「中間に位置するもの」という意味である。「見て、聞いて、読む物」に限定されるべきものではないはずだ。それでもこれまで「見て、聞いて、読む物」に限定されてきたのは、情報の流れが主に一方通行であり、「中間に位置するもの」にできることといえば「見せる、聞かせる、読ませる」ことぐらいに限定されていたからだ。
ところが情報の流れが双方向になることで、ユーザー同士が対話できるようになった。「中間に位置する物」はその対話を促進するために、いろいろな機能を持つようになってきている。そしてさらに対話は促進され、ユーザー同士がネット上で人間関係を形成するまでになっている。「中間に位置する物」は人間のつながりを促進するものになりつつあるわけだ。
ネット上のツールの変遷を見ても、つながりを促進する度合いが高まっているのが分かる。メールマガジンは、一対多の一方方向。その意味で、従来のメディアとそう変わらないものだった。ところがブログにはコメント欄、トラックバック欄が標準装備されている。トラックバックはいわば逆リンクのようなもの。先方のブログのトラックバック欄に、自分のブログへのリンクを掲示することができる。こうした機能のおかげで、ブロガー同士のつながりが形成されやすくなっている。
ブログの次に話題になったソーシャルネットワーキング(SNS)は、まさに人と人とのつながりを作るためのサービスだ。日本ではミクシーやグリーが代表的SNSだが、そのほとんどが無料の会員制のサイト。会員になるには既に会員になっているユーザーから招待されなければばらず、オープンだが無秩序のインターネットにあって、閉鎖的だが安心できる空間を作り出している。
SNSの中では友達の友達はみな友達という感覚で、友達の輪を増やしていける。友達になることで互いの日記(ブログ)などを読めるようになったりする。メールはもちろん、掲示板、ブログなどのコミュニケーションツールもそろっている。
一方で従来からあったようなネット上のサービスにも、人とつながるためのツールが搭載されるようになっている。米国の写真アルバムサイト「フリッカー」はデジタル写真を何枚でもサイト上に保存できることに加えて、ユーザー同士がつながる仕組みで人気のサイトだ。フリッカーでは、写真をサイト上に保存する際に「タグ」と呼ばれるキーワードをつけることができる。猫の写真には「猫」というタグをつける。「猫」というキーワードで検索すると「猫」というタグのつけられた写真が一覧表示される。「猫」というタグを通じて猫好きがつながったりする。保存される写真の7割以上が誰でも見れるように公開されており、写真を通じたコミュニティーが形成されているという。
ネット上の人間同士のつながりを促進するツールは今後どんどん進化するだろう。まずは実社会の人間関係を真似たものになると思う。だれとはつきあい、だれとはつきあわない。この人とつきあうときは、このような自分を出し、あの人とつきあうときは、別の部分の自分を出す。
そうした実社会の人間関係のネット上での再現とは別に、ネット上ならではの人間関係を促進するサービスも出てくるのだと思う。
無断でリンクを張るのは失礼かどうかという議論がある。自由にリンクを張れることこそがウェブの長所であり、文化である、という主張。その一方で、アダルトサイトなど特定のサイトとはつながりたくないという思いは尊重されるべき、という主張もある。
匿名はルール違反だという議論もある。実名ブログのコメント欄で匿名の反論をするのは、自分は絶対に殴られない場所にいながら相手をぼこぼこに殴るようなもので卑怯だ、という出張。その一方で、匿名だからこそ本音で議論できる、という主張もある。
こうしたいろいろな意見や考え方を許容し、より多くの人が快適に使える「つながるための仕組み」という方向性に向けてたゆまない技術革新が続くのだろう。
そして人間同士のつながりを通じて情報が流通するようになるのだと思う。先に紹介したSNSのマイスペース上ではユーザー同士のつながりで音楽に関する情報が流れている。マイスペースの経営陣は「マイスペースをネット上のMTV(若者に人気の音楽専門CATV局)にする」と目標を語る。とはいってもMTVのような音楽番組をネット上で単に流そうというわけではない。音楽のプロモーションビデオを、ユーザー同士のつながりを通じて流通していくというやり方だ。「見せるメディア」ではなく、あくまでも「つながるメディア」なわけだ。
近代以前は、情報は人同士のつながりを通じて流通したはず。それが近代になり、情報の流通は一方通行になり、情報の受け手と出し手が分離してしまった。その結果、受け手と出し手の間には「見る、聞く、読む」メディアが存在するようになった。
ところがインターネットは情報の双方向を可能にした。情報は再び人間同士のつながりを通じて流通し始めた。人同士の中間に位置するものは「見る、聞く、読む」物ではなくなり、つなげりを促進する物になろうとしている。メディア(中間に位置する物)の定義が、大きく変わろうとしているわけだ。
そして融合メディアの近未来は、SNSの進化したものになる。つまり「家族の中の父親としての自分」「夫としての自分」「学生時代の友達の間での自分」「会社員としての自分」「社会の中の自分」といった異なる自分を演じることのできる仕組みである。ブログのエントリーごとに公開する相手を細かく設定できる仕組みだ。公開する相手が家族なのか、友人なのか、会社の同僚なのかで、ブログのエントリーの内容を変え、それによって異なる「自分」を演じるわけだ。
その仕組みと平行して、映像、音声、文字情報など、あらゆるコンテンツを記録した巨大データベースが登場する。もしかするとインターネットそのものがその巨大データベースなのかもしれないが。
そのデータベース向けのコンテンツ製作を手がけたり、そのデータベースの中からコンテンツを選んでパッケージにするのが、新聞、ラジオ、テレビなどの既存メディア企業の仕事になる。個人でコンテンツを製作したり、パッケージ化したりすることを仕事にする人も現れるだろう。コンテンツ政策やパッケージ化を趣味として手がける人もいるだろう。既存メディア企業は個人やアマチュアと、コンテンツの質や価格といった面で戦わなければならない。優れたコンテンツには対価は支払われるだろうが、アマチュアの無料コンテンツが市場にあふれれば、コンテンツの相対的価格は下がらざるを得ない。
「見る、聞く、読む」メディアの時代には市場価値の下がったコンテンツは広告と組み合わさった。「つながる」メディアの時代には「マーケティング、広告と一体化した物販」と組み合わさることになる。
著者注:間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
広告がこれまでの概念とは異なったものになる一方で、メディアもこれまでの概念とは異なるものになるだろうとわたしは考えている。
ここまでは、メディアを見る物、聞く物、読む物という概念で語ってきた。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、既存メディアは、見て、聞いて、読む物だからだ。
しかし、メディアは今後も「見て、聞いて、読む物」なのだろうか。
もちろん、メディアのそうした部分は今後も残るだろう。ただそうした部分に新しいメディアの形が追加されるのではないかと考えている。
メディアという言葉は本来、「媒体」「中間に位置するもの」という意味である。「見て、聞いて、読む物」に限定されるべきものではないはずだ。それでもこれまで「見て、聞いて、読む物」に限定されてきたのは、情報の流れが主に一方通行であり、「中間に位置するもの」にできることといえば「見せる、聞かせる、読ませる」ことぐらいに限定されていたからだ。
ところが情報の流れが双方向になることで、ユーザー同士が対話できるようになった。「中間に位置する物」はその対話を促進するために、いろいろな機能を持つようになってきている。そしてさらに対話は促進され、ユーザー同士がネット上で人間関係を形成するまでになっている。「中間に位置する物」は人間のつながりを促進するものになりつつあるわけだ。
ネット上のツールの変遷を見ても、つながりを促進する度合いが高まっているのが分かる。メールマガジンは、一対多の一方方向。その意味で、従来のメディアとそう変わらないものだった。ところがブログにはコメント欄、トラックバック欄が標準装備されている。トラックバックはいわば逆リンクのようなもの。先方のブログのトラックバック欄に、自分のブログへのリンクを掲示することができる。こうした機能のおかげで、ブロガー同士のつながりが形成されやすくなっている。
ブログの次に話題になったソーシャルネットワーキング(SNS)は、まさに人と人とのつながりを作るためのサービスだ。日本ではミクシーやグリーが代表的SNSだが、そのほとんどが無料の会員制のサイト。会員になるには既に会員になっているユーザーから招待されなければばらず、オープンだが無秩序のインターネットにあって、閉鎖的だが安心できる空間を作り出している。
SNSの中では友達の友達はみな友達という感覚で、友達の輪を増やしていける。友達になることで互いの日記(ブログ)などを読めるようになったりする。メールはもちろん、掲示板、ブログなどのコミュニケーションツールもそろっている。
一方で従来からあったようなネット上のサービスにも、人とつながるためのツールが搭載されるようになっている。米国の写真アルバムサイト「フリッカー」はデジタル写真を何枚でもサイト上に保存できることに加えて、ユーザー同士がつながる仕組みで人気のサイトだ。フリッカーでは、写真をサイト上に保存する際に「タグ」と呼ばれるキーワードをつけることができる。猫の写真には「猫」というタグをつける。「猫」というキーワードで検索すると「猫」というタグのつけられた写真が一覧表示される。「猫」というタグを通じて猫好きがつながったりする。保存される写真の7割以上が誰でも見れるように公開されており、写真を通じたコミュニティーが形成されているという。
ネット上の人間同士のつながりを促進するツールは今後どんどん進化するだろう。まずは実社会の人間関係を真似たものになると思う。だれとはつきあい、だれとはつきあわない。この人とつきあうときは、このような自分を出し、あの人とつきあうときは、別の部分の自分を出す。
そうした実社会の人間関係のネット上での再現とは別に、ネット上ならではの人間関係を促進するサービスも出てくるのだと思う。
無断でリンクを張るのは失礼かどうかという議論がある。自由にリンクを張れることこそがウェブの長所であり、文化である、という主張。その一方で、アダルトサイトなど特定のサイトとはつながりたくないという思いは尊重されるべき、という主張もある。
匿名はルール違反だという議論もある。実名ブログのコメント欄で匿名の反論をするのは、自分は絶対に殴られない場所にいながら相手をぼこぼこに殴るようなもので卑怯だ、という出張。その一方で、匿名だからこそ本音で議論できる、という主張もある。
こうしたいろいろな意見や考え方を許容し、より多くの人が快適に使える「つながるための仕組み」という方向性に向けてたゆまない技術革新が続くのだろう。
そして人間同士のつながりを通じて情報が流通するようになるのだと思う。先に紹介したSNSのマイスペース上ではユーザー同士のつながりで音楽に関する情報が流れている。マイスペースの経営陣は「マイスペースをネット上のMTV(若者に人気の音楽専門CATV局)にする」と目標を語る。とはいってもMTVのような音楽番組をネット上で単に流そうというわけではない。音楽のプロモーションビデオを、ユーザー同士のつながりを通じて流通していくというやり方だ。「見せるメディア」ではなく、あくまでも「つながるメディア」なわけだ。
近代以前は、情報は人同士のつながりを通じて流通したはず。それが近代になり、情報の流通は一方通行になり、情報の受け手と出し手が分離してしまった。その結果、受け手と出し手の間には「見る、聞く、読む」メディアが存在するようになった。
ところがインターネットは情報の双方向を可能にした。情報は再び人間同士のつながりを通じて流通し始めた。人同士の中間に位置するものは「見る、聞く、読む」物ではなくなり、つなげりを促進する物になろうとしている。メディア(中間に位置する物)の定義が、大きく変わろうとしているわけだ。
そして融合メディアの近未来は、SNSの進化したものになる。つまり「家族の中の父親としての自分」「夫としての自分」「学生時代の友達の間での自分」「会社員としての自分」「社会の中の自分」といった異なる自分を演じることのできる仕組みである。ブログのエントリーごとに公開する相手を細かく設定できる仕組みだ。公開する相手が家族なのか、友人なのか、会社の同僚なのかで、ブログのエントリーの内容を変え、それによって異なる「自分」を演じるわけだ。
その仕組みと平行して、映像、音声、文字情報など、あらゆるコンテンツを記録した巨大データベースが登場する。もしかするとインターネットそのものがその巨大データベースなのかもしれないが。
そのデータベース向けのコンテンツ製作を手がけたり、そのデータベースの中からコンテンツを選んでパッケージにするのが、新聞、ラジオ、テレビなどの既存メディア企業の仕事になる。個人でコンテンツを製作したり、パッケージ化したりすることを仕事にする人も現れるだろう。コンテンツ政策やパッケージ化を趣味として手がける人もいるだろう。既存メディア企業は個人やアマチュアと、コンテンツの質や価格といった面で戦わなければならない。優れたコンテンツには対価は支払われるだろうが、アマチュアの無料コンテンツが市場にあふれれば、コンテンツの相対的価格は下がらざるを得ない。
「見る、聞く、読む」メディアの時代には市場価値の下がったコンテンツは広告と組み合わさった。「つながる」メディアの時代には「マーケティング、広告と一体化した物販」と組み合わさることになる。
著者注:間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-09-26 17:41
| 本の原稿