2005年 10月 05日
ジャーナリズムという嫌な言葉 |
▼参加型ジャーナリズムの時代
◎ジャーナリズムという嫌な言葉
メディアが変化すれば、ジャーナリズムにも当然影響を与える。ジャーナリズムが今後どのように変化していくのか、変化しないのか、を考えてみたい。
その前にジャーナリズムという言葉を定義しておく必要があるだろう。
ところで、わたしはジャーナリズムと言葉が嫌いだ。この言葉のことは、もともと好きではなかったが、参加型ジャーナリズムをテーマにしたブログを書くようになってますます嫌いになった。なぜならこのジャーナリズムという言葉は、多く人の中にどろどろとした嫌な感情を引き起こすからだ。
新聞記者OBを中心としたある勉強会で講演したことがある。テーマは、「メディアとジャーナリズムの今後」というようなものだったと記憶している。わたしはこのようなテーマで講演する際には、報道機関のビジネスモデルと、ジャーナリズム論の両方の話をバランスよく話すように心がけている。報道機関はジャーナリズムの社会的使命を忘れて金儲けに没頭すべきではないし、一方で経済基盤が弱いとどうしてもジャーナリズムの質が低下する。当たり前の話かもしれないが、報道機関にとって、ビジネスとジャーナリズムは車の両輪のようなものだと思う。
この勉強会でもいつものように、両方をバランスよく話したつもりだ。さすがは記者OBの集まりである。講演後は質問が相次いだ。各社とも経営状況が悪化しているためか、質問は新聞事業の将来展望、特にネット事業の今後のビジネスモデルに集中した。
そのときだ。「ビジネスモデルのことばかり話するな!」ある記者OBが声を荒げた。「君たちは経営者か、ジャーナリストか、どっちなんだ。ジャーナリズムに関してもっと話合わなければならないことがあるだろう」。
「お前はそれでもジャーナリストか」「あんなやつジャーナリストじゃない」ー。これまで何度も耳にした言葉だ。新聞記者って、どうしてこんなにプライドが高いのだろう。
新聞記者になるには、受験戦争を勝ち抜き、驚くほどの倍率の入社試験を勝ち抜かなければならないからかもしれない。プライドを持つように教育されるのかもしれない。
記者の新人研修などで「ジャーナリストとしてのプライドを持つように」という話を聞くことがある。しかし、仕事を愛し仕事に打ち込むというようなプロの職業人としてのプライドは、ジャーナリスト以外の業種でも存在するだろう。それ以上のプライドを持つ必要が本当にあるのだろうか。
反対に、ジャーナリズム、ジャーナリストという言葉に嫌悪感や劣等感を抱く人たちもいる。
わたしのブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」はほとんど荒れることはない。ほとんどの読者はマナーを守って非常に紳士的に議論してくれている。しかし非常にまれだが、失礼なコメントやトラックバックが寄せられることがある。何度読み返しても何を言いたいのかよく分からない。よく分からないのだが、わたしに対して怒っている。
「バカなやつほど、ブログがジャーナリズムだなんて言いたがる」「気取りすぎ」・・・。そこまでけなすことはないだろうと思うほど、ひどい言葉で挑発してくることもある。
どう考えてもわたしがジャーナリズムという言葉を使ったことに対して怒っているようなのである
ジャーナリストと呼ばれる人たちは、ジャーナリスト以外の人たちにとって排他的で非条理な仕組みのグループなのかもしれない。そのグループから排除された人たちは、ある者は羨望の念を抱き、ある者は嫌悪感、劣等感といった感情を抱くのかもしれない。
どちらかというと、わたしは「ジャーナリズム」という言葉に劣等感を抱く。それは、米国法人に入社し、本社採用の人間との間でいろいろなと差別されてきたというわたし自身の経歴に根付いているのかもしれない。
米国採用、本社採用など関係ない。本社採用の記者仲間に対し、報道という仕事の修羅場を共にくぐってきた同志という思いを、わたしは一方的に持っていた。しかし米国に出張してきた本社のある幹部はわたしに敬語を使った。本社採用の記者を指さし「彼らがいつもお世話になっています」と頭を下げた。彼にとってわたしは身内ではなかったのだ。
わたしの名前を社員名簿に載せることを反対し続けた人もいた。有形無形の力がわたしを排除しようとし続けた。
わたしには、長年に渡り仲間に入れてもらえなかったという劣等感があるのだと思う。わたしが参加型ジャーナリズムを支援したいと思う気持ちの根底には、その劣等感があるのかもしれない。
しかし劣等感を抱いている記者は、わたしだけではないかもしれない。「夜回りをしたことがないやつはジャーナリストじゃない」「サツ回りをしたことがないやつはジャーナリストじゃない」・・・。こうしたことを言う人たちも実は、劣等感にさいなまされているのではないかと思う。こうした人たちのジャーナリストの定義には、当然自分自身が含まれている。このような消去法的な定義をすることで、ジャーナリストの輪を狭め、そうすることで優越感に浸ろうとしているのではなかろうか。逆に言うと、そうしなければならないほど自分自身、劣等感に悩んでいるのだと思う。
ジャーナリスト、ジャーナリズムという言葉は、どうしてここまで人々を苦しめるのだろうか。それは今のジャーナリズムがあまりに排他的だからではなかろうか。あまりに排他的なので、中に入れないものには嫌悪感や根拠のない劣等感を、入ったものには根拠のない優越感を抱かせるのではなかろうか。しかもその優越感さえ非常に薄っぺらで壊れやすく、優越感を維持するにはできるだけ排他的にならなければならない。
現状のジャーナリズムには問題点が多い。その問題点の1つが、この排他性だと思う。この排他性のおかげで、ジャーナリズムという言葉を使って議論することさえ困難にさせているのだと思う。
今ネット上で起こっている事象の中には、ジャーナリズムとしか形容できないものがある。この事象に関する議論を進めるためには、どうしてもジャーナリズムという言葉を使わざるをえない。この言葉を使うことで、わたしは気取るつもりも、人を見下すつもりもない。そのことを理解していただいた上で、これからの議論を読み進めていただきたいと思う。
著者注:間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
◎ジャーナリズムという嫌な言葉
メディアが変化すれば、ジャーナリズムにも当然影響を与える。ジャーナリズムが今後どのように変化していくのか、変化しないのか、を考えてみたい。
その前にジャーナリズムという言葉を定義しておく必要があるだろう。
ところで、わたしはジャーナリズムと言葉が嫌いだ。この言葉のことは、もともと好きではなかったが、参加型ジャーナリズムをテーマにしたブログを書くようになってますます嫌いになった。なぜならこのジャーナリズムという言葉は、多く人の中にどろどろとした嫌な感情を引き起こすからだ。
新聞記者OBを中心としたある勉強会で講演したことがある。テーマは、「メディアとジャーナリズムの今後」というようなものだったと記憶している。わたしはこのようなテーマで講演する際には、報道機関のビジネスモデルと、ジャーナリズム論の両方の話をバランスよく話すように心がけている。報道機関はジャーナリズムの社会的使命を忘れて金儲けに没頭すべきではないし、一方で経済基盤が弱いとどうしてもジャーナリズムの質が低下する。当たり前の話かもしれないが、報道機関にとって、ビジネスとジャーナリズムは車の両輪のようなものだと思う。
この勉強会でもいつものように、両方をバランスよく話したつもりだ。さすがは記者OBの集まりである。講演後は質問が相次いだ。各社とも経営状況が悪化しているためか、質問は新聞事業の将来展望、特にネット事業の今後のビジネスモデルに集中した。
そのときだ。「ビジネスモデルのことばかり話するな!」ある記者OBが声を荒げた。「君たちは経営者か、ジャーナリストか、どっちなんだ。ジャーナリズムに関してもっと話合わなければならないことがあるだろう」。
「お前はそれでもジャーナリストか」「あんなやつジャーナリストじゃない」ー。これまで何度も耳にした言葉だ。新聞記者って、どうしてこんなにプライドが高いのだろう。
新聞記者になるには、受験戦争を勝ち抜き、驚くほどの倍率の入社試験を勝ち抜かなければならないからかもしれない。プライドを持つように教育されるのかもしれない。
記者の新人研修などで「ジャーナリストとしてのプライドを持つように」という話を聞くことがある。しかし、仕事を愛し仕事に打ち込むというようなプロの職業人としてのプライドは、ジャーナリスト以外の業種でも存在するだろう。それ以上のプライドを持つ必要が本当にあるのだろうか。
反対に、ジャーナリズム、ジャーナリストという言葉に嫌悪感や劣等感を抱く人たちもいる。
わたしのブログ「ネットは新聞を殺すのかblog」はほとんど荒れることはない。ほとんどの読者はマナーを守って非常に紳士的に議論してくれている。しかし非常にまれだが、失礼なコメントやトラックバックが寄せられることがある。何度読み返しても何を言いたいのかよく分からない。よく分からないのだが、わたしに対して怒っている。
「バカなやつほど、ブログがジャーナリズムだなんて言いたがる」「気取りすぎ」・・・。そこまでけなすことはないだろうと思うほど、ひどい言葉で挑発してくることもある。
どう考えてもわたしがジャーナリズムという言葉を使ったことに対して怒っているようなのである
ジャーナリストと呼ばれる人たちは、ジャーナリスト以外の人たちにとって排他的で非条理な仕組みのグループなのかもしれない。そのグループから排除された人たちは、ある者は羨望の念を抱き、ある者は嫌悪感、劣等感といった感情を抱くのかもしれない。
どちらかというと、わたしは「ジャーナリズム」という言葉に劣等感を抱く。それは、米国法人に入社し、本社採用の人間との間でいろいろなと差別されてきたというわたし自身の経歴に根付いているのかもしれない。
米国採用、本社採用など関係ない。本社採用の記者仲間に対し、報道という仕事の修羅場を共にくぐってきた同志という思いを、わたしは一方的に持っていた。しかし米国に出張してきた本社のある幹部はわたしに敬語を使った。本社採用の記者を指さし「彼らがいつもお世話になっています」と頭を下げた。彼にとってわたしは身内ではなかったのだ。
わたしの名前を社員名簿に載せることを反対し続けた人もいた。有形無形の力がわたしを排除しようとし続けた。
わたしには、長年に渡り仲間に入れてもらえなかったという劣等感があるのだと思う。わたしが参加型ジャーナリズムを支援したいと思う気持ちの根底には、その劣等感があるのかもしれない。
しかし劣等感を抱いている記者は、わたしだけではないかもしれない。「夜回りをしたことがないやつはジャーナリストじゃない」「サツ回りをしたことがないやつはジャーナリストじゃない」・・・。こうしたことを言う人たちも実は、劣等感にさいなまされているのではないかと思う。こうした人たちのジャーナリストの定義には、当然自分自身が含まれている。このような消去法的な定義をすることで、ジャーナリストの輪を狭め、そうすることで優越感に浸ろうとしているのではなかろうか。逆に言うと、そうしなければならないほど自分自身、劣等感に悩んでいるのだと思う。
ジャーナリスト、ジャーナリズムという言葉は、どうしてここまで人々を苦しめるのだろうか。それは今のジャーナリズムがあまりに排他的だからではなかろうか。あまりに排他的なので、中に入れないものには嫌悪感や根拠のない劣等感を、入ったものには根拠のない優越感を抱かせるのではなかろうか。しかもその優越感さえ非常に薄っぺらで壊れやすく、優越感を維持するにはできるだけ排他的にならなければならない。
現状のジャーナリズムには問題点が多い。その問題点の1つが、この排他性だと思う。この排他性のおかげで、ジャーナリズムという言葉を使って議論することさえ困難にさせているのだと思う。
今ネット上で起こっている事象の中には、ジャーナリズムとしか形容できないものがある。この事象に関する議論を進めるためには、どうしてもジャーナリズムという言葉を使わざるをえない。この言葉を使うことで、わたしは気取るつもりも、人を見下すつもりもない。そのことを理解していただいた上で、これからの議論を読み進めていただきたいと思う。
著者注:間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。参考「本を書きます」

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by tsuruaki_yukawa
| 2005-10-05 18:16
| 本の原稿