2005年 11月 29日
21世紀の新しいジャーナリズムの形 |
▼21世紀の新しいジャーナリズムの形
米国のブログを中心としたジャーナリスティックな活動と、韓国のニュースサイトを中心としたジャーナリスティックな活動を紹介した。この2例以外にもネット上のあちらこちらにジャーナリズムとしか形容できないような活動が散見されるようになっている。「便所の落書き」と揶揄されることの多い日本の巨大掲示板「2ちゃんねる」でさえ、ジャーナリスティックな活動を過去に何度も実践している。
こうしたネット上の新しいジャーナリズムを見てみると、幾つかの共通した特徴がみられる。
1つは、市民参加型であるということだ。韓国オーマイニュースのモットーは「市民みんなが記者」。市民参加型の報道機関だ。米国のブログジャーナリズムの担い手も、プロのジャーナリストではなく、専門家を含む一般市民だ。
20世紀のジャーナリズムの世界では、記者と呼ばれるのは報道機関に所属するプロのジャーナリストだけだった。フリーのジャーナリストも存在したが、テレビや雑誌などのメディアで活躍できるレベルの者、つまり報道機関に仲間であると認められる者だけが、ジャーナリストの閉鎖的な輪の中に入ることができた。
ところが報道機関に所属しない者、メディア企業が「仲間」と認めていない者が、ジャーナリズムを実践し始めたわけだ。わたしは新しいジャーナリズムの最大の特徴が、市民が参加することにあると思っている。ゆえに新しいジャーナリズムを「参加型ジャーナリズム」と形容することにしている。
しかし参加型であること以外にも、幾つかの特徴が挙げられる。1つは、「議論型」であるということだ。これまでのジャーナリズムでは、記者が先生で、読者が生徒のようなものだった。異なる主張があったとしても、記者は異なる主張をバンランスよく記事の中に取り込み、分かりやすく簡潔に記事に仕上げた。何が真実であるかを記者が見定め、読者はそれを真実として受け入れるだけでよかった。「講義型」ジャーナリズムと呼んでもいいだろう。
一方で「議論型」ジャーナリズムは、情報の出し手がそれぞれ自分の主張を展開する。読者はそれを読み比べることで自分なりの「真実」を確立するというものだ。「真実」は本来、いろいろな切り口によって異なって当然だと思う。みんながみんな同じ「真実」を持つよりも、異なる「真実」が存在する社会のほうが健全なのではなかろうか。数学の問いならいざしらず、哲学的な問いにさえ「正解」が1つしかない、という社会ではまずいのではないかということだ。そういう意味で、わたしは「議論型」ジャーナリズムに期待を寄せている。
ただ情報の受け手側も、新しいジャーナリズムに対しては新しい受け取り方が必要だと思う。新しいメディアが登場すれば新しいリテラシーが必要だということだ。
市民記者の記事の質が低いという話をよく耳にする。「これほど質が低くても、あなたは市民記者ジャーナリズムを支持するのか」という質問がわたしのブログに寄せられることがある。確かに「講義型」ジャーナリズムの記事としてみた場合は質が低いと言わざるを得ない市民記者の記事があることはある。しかし「議論型」ジャーナリズムの記事は、新聞記事のように完成度の高いものである必要はないと思う。オーマイニュースのオー・ヨンホ社長は「市民記者の記事は新聞記事のスタイルに準ずる必要はない」と言うが、わたしも全く同感だ。
新聞記事を読んで分からないことがあってもすぐには質問できない。新聞社に質問し、回答してくれたとしても、回答を得るまでに時間と手間がかかった。それゆえに、新聞記事は完成度が高くなければならなかった。分かりやすくなければならなかった。ただ万人に対しての分かりやすさを追求した結果、物事を単純化し過ぎてしまうという副作用も生じた。
新しいジャーナリズムでは、分からない部分をすぐに質問できるし、すぐに回答してもらえることも多い。それがネットというメディアの特性である。物事を無理に単純化しなくても、書き手と読み手の議論の中で、理解を深めることが可能なのだ。
書き手は、こうした「講義型」「議論型」のメディアの特性を理解して、書き分ける必要があるだろう。それぞれに適した記事のスタイルがあってしかるべきだと思う。読み手も、メディアの特性に合った読み方、メディアリテラシーを身につけるべきだし、時間とともに新しいメディアリテラシーを身につけた人は増えてくるだろうと思っている。
さて新しいジャーナリズムのもう1つの特徴は、「分散型」であるということだ。非常に多くの人が手分けして情報を収集してくるわけだ。先に紹介した「ラザーゲート」でも、一人ひとりのブロガーが集めてくる情報はささいなものでも、小片が集まることで著名ジャーナリストを降板に追い込むような大きなうねりになるわけだ。日本の「2ちゃんねる」でも分散型ジャーナリズムが過去に何度も実践されている。
個人もしくは少人数の取材チームが主流のジャーナリズムに対し、不特定多数の市民が情報を集めてくるのが、分散型ジャーナリズム。新しいジャーナリズムの特性の中でも、今後最も期待できる特性といっていいだろう。
新しいジャーナリズムのもう1つの特徴として、権威付けの仕組みの変化が挙げられると思う。東京大学の花田達朗教授と意見交換させていただいた際に、権威付けの仕組みの変化の重要性を指摘していただいた。確かにその通りだと思う。
これまでは新聞社などの報道機関が情報に権威付けしていた。「○○新聞が報じた」ということで、その情報は権威付けされ、その情報が「真実」として扱われることが多かった。
ところがネット上で報道機関の報道内容にいったん疑問符がつけば、あっという間に報道内容を覆すような証拠が次々と挙げられてしまう。新聞の信憑性の神話が崩れ始めているという指摘は過去にもあったが、ネット利用の普及で神話の崩壊が加速したのは間違いないだろう。
しかし情報を効率的に入手するには、権威付けの仕組みは不可欠である。社会のすべての事象について詳細に渡る賛否両論を読み解いて、自分なりの見解を持つことなど不可能だからだ。だれかに「これが真実だ」「これが重要だ」と示してもらいたいというニーズは、いつまでもなくならないだろう。
そこで報道機関の権威付けを補完、もしくは代替する権威付けの仕組みが必要になる。それは自分が信頼を置くブログかもしれない。ニュースのアクセスランキングかもしれない。グーグルニュースに使用されているような、記事の重要性を判断するソフトウエアかもしれない。今はまだ稚拙な仕組みかもしれない。しかし今後より洗練される可能性は大きいと思う。
今はまだ権威付けの仕組みの変化の過渡期にあると思う。報道機関に代わる権威付けの仕組みは、まだ確立していないと言っていいだろう。この問題に関して、あとでもう少し議論してみたいと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
米国のブログを中心としたジャーナリスティックな活動と、韓国のニュースサイトを中心としたジャーナリスティックな活動を紹介した。この2例以外にもネット上のあちらこちらにジャーナリズムとしか形容できないような活動が散見されるようになっている。「便所の落書き」と揶揄されることの多い日本の巨大掲示板「2ちゃんねる」でさえ、ジャーナリスティックな活動を過去に何度も実践している。
こうしたネット上の新しいジャーナリズムを見てみると、幾つかの共通した特徴がみられる。
1つは、市民参加型であるということだ。韓国オーマイニュースのモットーは「市民みんなが記者」。市民参加型の報道機関だ。米国のブログジャーナリズムの担い手も、プロのジャーナリストではなく、専門家を含む一般市民だ。
20世紀のジャーナリズムの世界では、記者と呼ばれるのは報道機関に所属するプロのジャーナリストだけだった。フリーのジャーナリストも存在したが、テレビや雑誌などのメディアで活躍できるレベルの者、つまり報道機関に仲間であると認められる者だけが、ジャーナリストの閉鎖的な輪の中に入ることができた。
ところが報道機関に所属しない者、メディア企業が「仲間」と認めていない者が、ジャーナリズムを実践し始めたわけだ。わたしは新しいジャーナリズムの最大の特徴が、市民が参加することにあると思っている。ゆえに新しいジャーナリズムを「参加型ジャーナリズム」と形容することにしている。
しかし参加型であること以外にも、幾つかの特徴が挙げられる。1つは、「議論型」であるということだ。これまでのジャーナリズムでは、記者が先生で、読者が生徒のようなものだった。異なる主張があったとしても、記者は異なる主張をバンランスよく記事の中に取り込み、分かりやすく簡潔に記事に仕上げた。何が真実であるかを記者が見定め、読者はそれを真実として受け入れるだけでよかった。「講義型」ジャーナリズムと呼んでもいいだろう。
一方で「議論型」ジャーナリズムは、情報の出し手がそれぞれ自分の主張を展開する。読者はそれを読み比べることで自分なりの「真実」を確立するというものだ。「真実」は本来、いろいろな切り口によって異なって当然だと思う。みんながみんな同じ「真実」を持つよりも、異なる「真実」が存在する社会のほうが健全なのではなかろうか。数学の問いならいざしらず、哲学的な問いにさえ「正解」が1つしかない、という社会ではまずいのではないかということだ。そういう意味で、わたしは「議論型」ジャーナリズムに期待を寄せている。
ただ情報の受け手側も、新しいジャーナリズムに対しては新しい受け取り方が必要だと思う。新しいメディアが登場すれば新しいリテラシーが必要だということだ。
市民記者の記事の質が低いという話をよく耳にする。「これほど質が低くても、あなたは市民記者ジャーナリズムを支持するのか」という質問がわたしのブログに寄せられることがある。確かに「講義型」ジャーナリズムの記事としてみた場合は質が低いと言わざるを得ない市民記者の記事があることはある。しかし「議論型」ジャーナリズムの記事は、新聞記事のように完成度の高いものである必要はないと思う。オーマイニュースのオー・ヨンホ社長は「市民記者の記事は新聞記事のスタイルに準ずる必要はない」と言うが、わたしも全く同感だ。
新聞記事を読んで分からないことがあってもすぐには質問できない。新聞社に質問し、回答してくれたとしても、回答を得るまでに時間と手間がかかった。それゆえに、新聞記事は完成度が高くなければならなかった。分かりやすくなければならなかった。ただ万人に対しての分かりやすさを追求した結果、物事を単純化し過ぎてしまうという副作用も生じた。
新しいジャーナリズムでは、分からない部分をすぐに質問できるし、すぐに回答してもらえることも多い。それがネットというメディアの特性である。物事を無理に単純化しなくても、書き手と読み手の議論の中で、理解を深めることが可能なのだ。
書き手は、こうした「講義型」「議論型」のメディアの特性を理解して、書き分ける必要があるだろう。それぞれに適した記事のスタイルがあってしかるべきだと思う。読み手も、メディアの特性に合った読み方、メディアリテラシーを身につけるべきだし、時間とともに新しいメディアリテラシーを身につけた人は増えてくるだろうと思っている。
さて新しいジャーナリズムのもう1つの特徴は、「分散型」であるということだ。非常に多くの人が手分けして情報を収集してくるわけだ。先に紹介した「ラザーゲート」でも、一人ひとりのブロガーが集めてくる情報はささいなものでも、小片が集まることで著名ジャーナリストを降板に追い込むような大きなうねりになるわけだ。日本の「2ちゃんねる」でも分散型ジャーナリズムが過去に何度も実践されている。
個人もしくは少人数の取材チームが主流のジャーナリズムに対し、不特定多数の市民が情報を集めてくるのが、分散型ジャーナリズム。新しいジャーナリズムの特性の中でも、今後最も期待できる特性といっていいだろう。
新しいジャーナリズムのもう1つの特徴として、権威付けの仕組みの変化が挙げられると思う。東京大学の花田達朗教授と意見交換させていただいた際に、権威付けの仕組みの変化の重要性を指摘していただいた。確かにその通りだと思う。
これまでは新聞社などの報道機関が情報に権威付けしていた。「○○新聞が報じた」ということで、その情報は権威付けされ、その情報が「真実」として扱われることが多かった。
ところがネット上で報道機関の報道内容にいったん疑問符がつけば、あっという間に報道内容を覆すような証拠が次々と挙げられてしまう。新聞の信憑性の神話が崩れ始めているという指摘は過去にもあったが、ネット利用の普及で神話の崩壊が加速したのは間違いないだろう。
しかし情報を効率的に入手するには、権威付けの仕組みは不可欠である。社会のすべての事象について詳細に渡る賛否両論を読み解いて、自分なりの見解を持つことなど不可能だからだ。だれかに「これが真実だ」「これが重要だ」と示してもらいたいというニーズは、いつまでもなくならないだろう。
そこで報道機関の権威付けを補完、もしくは代替する権威付けの仕組みが必要になる。それは自分が信頼を置くブログかもしれない。ニュースのアクセスランキングかもしれない。グーグルニュースに使用されているような、記事の重要性を判断するソフトウエアかもしれない。今はまだ稚拙な仕組みかもしれない。しかし今後より洗練される可能性は大きいと思う。
今はまだ権威付けの仕組みの変化の過渡期にあると思う。報道機関に代わる権威付けの仕組みは、まだ確立していないと言っていいだろう。この問題に関して、あとでもう少し議論してみたいと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-11-29 19:37
| 本の原稿