2005年 11月 30日
参加型ジャーナリズムへの期待 |
◎参加型ジャーナリズムへの期待
わたしが参加型ジャーナリズムに期待する理由は2つある。1つはメディア産業が大きく変化しようとする中で、民主主義に不可欠なジャーナリズムの一部を参加型ジャーナリズムが担ってくれるようになるのではないかと思うからだ。
そしてもう1つは、現在のジャーナリズムが抱える病理の一部を改善する糸口に、参加型ジャーナリズムがなるのではないかと思うからだ。現在のジャーナリズムはどのような病理を抱えているのだろう。わたしが体験した例を幾つか挙げてみよう。
▼「するべからず十箇条」
わたしは結局、何年間、大学にいったのだろう。大学教育は米国で受けたのだが、途中何度か転校し、アルバイトしながら夜間の授業だけ受けていた時期もあった。1週間に1時間半しか授業を取らなかった時期もあった。単位は十分にそろっているので早く審査を受けて卒業するように、という大学からの督促状を何度か受け取った記憶がある。それでもしつこく大学に残っていたのは、次から次ぎへと興味の対象が移り変わり、勉強したくてたまらないことが次々と登場したからだった。
その過程で、ジャーナリズムのクラスを何度か取ったことがある。ジャーナリズム概論や記事の書き方など、続けざまに3科目ほど取ったことを記憶している。学んだことのほとんどは忘れてしまったのだが、「記者として、してはならないこと十箇条」のようなものを学んだことを今でも覚えている。
ただ十箇条の具体的項目は、今ではほとんど忘れてしまった。今でも覚えている項目は2つだけ。1つは「発表文を基に原稿を書いて、仕事をしている気になるな」というもの。もう1つは「明日発表される予定のものを、今日スクープして喜ぶな」というようなものだった。
「発表文を基に原稿を書いて、仕事をしている気になるな」というのは、発表文を基に記事を書けば、発表文を書いた役所や企業の思惑が記事に反映される可能性があるから。それでは公正な報道はできない、ということだと思う。
もう1つの項目「明日発表されることを今日報じるな」というのは、恐らく次のようなことを言いたいのだと思う。明日正式に発表されるのなら、それを待って報道したほうが正確に報道できる。早くスクープすることばかりを優先すると、中途半端な誤った情報で記事を書く恐れがある。不正確に報道するリスクを背負い、1日早く報道することで社会にどれだけ貢献できるというのか。そんなことに労力を使うより、社会悪を暴くための調査報道に労力を集中しろ。そんな主旨なんだろうと思う。
ジャーナリズムとは、すなわち調査報道のことである、というのが時代のムードだったころのことだから、記者は何よりも調査報道を目指せ、というのが十箇条の主張だったのだろう。
その授業を受けてから数年後、わたしは記者の仕事についていた。主な仕事は、発表文を基に記事を書くことだった。とにかく1本でも多くの記事を書かなければ・・・。だれかにそう言われたのか、自分自身にそう言い聞かせていたのか、それは分からない。分からないが、やたら多くの記事を書いていた。多くの記事を書くために最も効率がいいのは、発表文を基に記事を書くことだった。
さらに何年かが過ぎ、わたしは日本で記者クラブに詰めていた。そのときの同僚の記者の言葉に、はっとしたことがある。その言葉とは「発表の半日前にきれいに抜け」というものだった。わたし自身も知らず知らずのうちに、発表の半日前にスクープすることを目指していた。しかしいざ言葉にすることで、大学時代に学んだ例の十箇条を思い出し、それを破っている自分に気がついた。
▼新聞社と通信社は競合関係か
某大手新聞社の記者が、ネット時代のジャーナリズムについてわたしをインタビューしに来たことがある。彼はわたしの主張にいたく感動してくれて、「湯川さんの名前で引用させてもらいます」と話していた。ところが記事にわたしの名前は入っていなかった。デスクの判断で削除されたのだという。その理由は、競合社の編集委員の名前を使うわけにはいかない、というものだった。「最後まで抵抗したのですが」とこの記者は、申し訳なさそうに弁解した。
しかしわたしの所属する通信社がその新聞社と競合関係にある、と考える読者が果たしているのだろうか。多くの読者は通信社の存在をしらない。通信社とは新聞社に記事を配信している新聞記事の問屋のような会社だ、というように説明すれば、なおさら読者は通信社と新聞社を競合関係にあるとは考えないだろう。事実、会社同士は競合関係にはない。新聞社は通信社にとって、あくまでも得意先だ。競合関係にあるのは、現場の記者同士だけだ。記者クラブの中では、新聞社の記者も通信社の記者もなく特ダネ競争が繰り広げられているからだ。つまり前出のデスクは、読者がどう受け止めるかということより、記者クラブ内の記者がどう受け止めるか、ということだけを気にしていたのだ。
▼「役所を取材しているのだから住民の声は不要」
ある地方紙の電子メディア局長と話していたときのことだ。その地方紙のニュースサイトの掲示板に読者の声が寄せられるようになり、最近はゴミの問題で読者同士の議論が盛り上がっているという。「住民の声を新聞の記事に反映させてはどうだろうか」。電子メディア局長は、紙のほうの編集局に持ちかけたという。紙の編集局の答えは「そんなものはいらない。ゴミの問題は役所を取材しているのだから、それで十分」というものだった。
電子メディア局長はわたしに、「やはりジャーナリズムと掲示板は交わらないもんなんですね」と諦め顔で言った。
「ちょっと待ってくださいよ。それっておかしくないですか」。人のいい電子メディア局長にくってかかるつもりはなかったが、思わず声を荒げてしまった。
一般市民の声の代弁者であるはずの新聞が、市民の声を聞かずに役所側の声を集めるだけで満足している。それこそがジャーナリズムだと思っている編集局の人間。反論されジャーナリズムってそういうものかと思ってしまった電子メディア局長。
何かがおかしい。ジャーナリズムの何かがだめになってきている。新聞離れが進んでいると新聞関係者は嘆くが、読者が新聞から離れていったのではないのではない。新聞のほうが読者から離れていっているのではなかろうか。
▼権力に擦り寄る権力の監視者
北海道新聞に高田昌幸さんという記者がいる。北海道警察の裏金事件で数々のスクープを取り新聞協会賞など多くの賞を受賞した特ダネ記者だ。調査報道に半生をかけたような高田記者のブログ「ニュースの現場で考えること」を読み、ご本人とも議論させていただく中で、現状のジャーナリズムが抱えるこうした病理の根深さに改めて気づかされた。
高田記者は、その病理の例を幾つも挙げることができる。裏金報道のスクープで北海道新聞の取材チームと北海道警察の関係がぎくしゃくした隙に、「北海道新聞をなんとかして蹴落としましょう。一緒に潰しましょう」という感じに北海道警察に擦り寄りろうとした全国紙の記者がいたという。日本のメディアの病気のうち一番の問題は、当局に弱い、権力に弱いという部分だ、と高田記者は指摘する。その反対に、弱い者には強くでる。弱い者、弱りかけている者を容赦なく叩く、というところがあるという。
こうした病理を克服する糸口に、参加型ジャーナリズムがなるかもしれない、と高田記者は主張する。わたしもそうかもしれないと思う。記者と読者が対話するようになれば、読者の思いを記者が知るようになれば、報道のあり方が変わるのではないだろうか。社会悪を暴いたときと、「明日、正式発表」と報じたときでは、読者からどちらに賞賛のコメントが多く寄せられるだろう。ゴミ問題で読者の声を紹介する記事と、役所の見解を紹介する記事では、読者はどちらを評価するだろう。役所などの取材先と記者仲間だけを意識した記事と、読者を意識した記事の、どちらが読者の共感を得ることができるだろう。
もちろん参加型ジャーナリズムがすべてを解決してくれるとは思わない。しかしジャーナリズムの再生に貢献してくれるかもしれない。今はそんな気がする。
【脚注】「ニュースの現場で考えること」
http://newsnews.exblog.jp/
「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」(湯川鶴章、高田昌幸、藤代裕之著、野良舎)p51-p53
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
わたしが参加型ジャーナリズムに期待する理由は2つある。1つはメディア産業が大きく変化しようとする中で、民主主義に不可欠なジャーナリズムの一部を参加型ジャーナリズムが担ってくれるようになるのではないかと思うからだ。
そしてもう1つは、現在のジャーナリズムが抱える病理の一部を改善する糸口に、参加型ジャーナリズムがなるのではないかと思うからだ。現在のジャーナリズムはどのような病理を抱えているのだろう。わたしが体験した例を幾つか挙げてみよう。
▼「するべからず十箇条」
わたしは結局、何年間、大学にいったのだろう。大学教育は米国で受けたのだが、途中何度か転校し、アルバイトしながら夜間の授業だけ受けていた時期もあった。1週間に1時間半しか授業を取らなかった時期もあった。単位は十分にそろっているので早く審査を受けて卒業するように、という大学からの督促状を何度か受け取った記憶がある。それでもしつこく大学に残っていたのは、次から次ぎへと興味の対象が移り変わり、勉強したくてたまらないことが次々と登場したからだった。
その過程で、ジャーナリズムのクラスを何度か取ったことがある。ジャーナリズム概論や記事の書き方など、続けざまに3科目ほど取ったことを記憶している。学んだことのほとんどは忘れてしまったのだが、「記者として、してはならないこと十箇条」のようなものを学んだことを今でも覚えている。
ただ十箇条の具体的項目は、今ではほとんど忘れてしまった。今でも覚えている項目は2つだけ。1つは「発表文を基に原稿を書いて、仕事をしている気になるな」というもの。もう1つは「明日発表される予定のものを、今日スクープして喜ぶな」というようなものだった。
「発表文を基に原稿を書いて、仕事をしている気になるな」というのは、発表文を基に記事を書けば、発表文を書いた役所や企業の思惑が記事に反映される可能性があるから。それでは公正な報道はできない、ということだと思う。
もう1つの項目「明日発表されることを今日報じるな」というのは、恐らく次のようなことを言いたいのだと思う。明日正式に発表されるのなら、それを待って報道したほうが正確に報道できる。早くスクープすることばかりを優先すると、中途半端な誤った情報で記事を書く恐れがある。不正確に報道するリスクを背負い、1日早く報道することで社会にどれだけ貢献できるというのか。そんなことに労力を使うより、社会悪を暴くための調査報道に労力を集中しろ。そんな主旨なんだろうと思う。
ジャーナリズムとは、すなわち調査報道のことである、というのが時代のムードだったころのことだから、記者は何よりも調査報道を目指せ、というのが十箇条の主張だったのだろう。
その授業を受けてから数年後、わたしは記者の仕事についていた。主な仕事は、発表文を基に記事を書くことだった。とにかく1本でも多くの記事を書かなければ・・・。だれかにそう言われたのか、自分自身にそう言い聞かせていたのか、それは分からない。分からないが、やたら多くの記事を書いていた。多くの記事を書くために最も効率がいいのは、発表文を基に記事を書くことだった。
さらに何年かが過ぎ、わたしは日本で記者クラブに詰めていた。そのときの同僚の記者の言葉に、はっとしたことがある。その言葉とは「発表の半日前にきれいに抜け」というものだった。わたし自身も知らず知らずのうちに、発表の半日前にスクープすることを目指していた。しかしいざ言葉にすることで、大学時代に学んだ例の十箇条を思い出し、それを破っている自分に気がついた。
▼新聞社と通信社は競合関係か
某大手新聞社の記者が、ネット時代のジャーナリズムについてわたしをインタビューしに来たことがある。彼はわたしの主張にいたく感動してくれて、「湯川さんの名前で引用させてもらいます」と話していた。ところが記事にわたしの名前は入っていなかった。デスクの判断で削除されたのだという。その理由は、競合社の編集委員の名前を使うわけにはいかない、というものだった。「最後まで抵抗したのですが」とこの記者は、申し訳なさそうに弁解した。
しかしわたしの所属する通信社がその新聞社と競合関係にある、と考える読者が果たしているのだろうか。多くの読者は通信社の存在をしらない。通信社とは新聞社に記事を配信している新聞記事の問屋のような会社だ、というように説明すれば、なおさら読者は通信社と新聞社を競合関係にあるとは考えないだろう。事実、会社同士は競合関係にはない。新聞社は通信社にとって、あくまでも得意先だ。競合関係にあるのは、現場の記者同士だけだ。記者クラブの中では、新聞社の記者も通信社の記者もなく特ダネ競争が繰り広げられているからだ。つまり前出のデスクは、読者がどう受け止めるかということより、記者クラブ内の記者がどう受け止めるか、ということだけを気にしていたのだ。
▼「役所を取材しているのだから住民の声は不要」
ある地方紙の電子メディア局長と話していたときのことだ。その地方紙のニュースサイトの掲示板に読者の声が寄せられるようになり、最近はゴミの問題で読者同士の議論が盛り上がっているという。「住民の声を新聞の記事に反映させてはどうだろうか」。電子メディア局長は、紙のほうの編集局に持ちかけたという。紙の編集局の答えは「そんなものはいらない。ゴミの問題は役所を取材しているのだから、それで十分」というものだった。
電子メディア局長はわたしに、「やはりジャーナリズムと掲示板は交わらないもんなんですね」と諦め顔で言った。
「ちょっと待ってくださいよ。それっておかしくないですか」。人のいい電子メディア局長にくってかかるつもりはなかったが、思わず声を荒げてしまった。
一般市民の声の代弁者であるはずの新聞が、市民の声を聞かずに役所側の声を集めるだけで満足している。それこそがジャーナリズムだと思っている編集局の人間。反論されジャーナリズムってそういうものかと思ってしまった電子メディア局長。
何かがおかしい。ジャーナリズムの何かがだめになってきている。新聞離れが進んでいると新聞関係者は嘆くが、読者が新聞から離れていったのではないのではない。新聞のほうが読者から離れていっているのではなかろうか。
▼権力に擦り寄る権力の監視者
北海道新聞に高田昌幸さんという記者がいる。北海道警察の裏金事件で数々のスクープを取り新聞協会賞など多くの賞を受賞した特ダネ記者だ。調査報道に半生をかけたような高田記者のブログ「ニュースの現場で考えること」を読み、ご本人とも議論させていただく中で、現状のジャーナリズムが抱えるこうした病理の根深さに改めて気づかされた。
高田記者は、その病理の例を幾つも挙げることができる。裏金報道のスクープで北海道新聞の取材チームと北海道警察の関係がぎくしゃくした隙に、「北海道新聞をなんとかして蹴落としましょう。一緒に潰しましょう」という感じに北海道警察に擦り寄りろうとした全国紙の記者がいたという。日本のメディアの病気のうち一番の問題は、当局に弱い、権力に弱いという部分だ、と高田記者は指摘する。その反対に、弱い者には強くでる。弱い者、弱りかけている者を容赦なく叩く、というところがあるという。
こうした病理を克服する糸口に、参加型ジャーナリズムがなるかもしれない、と高田記者は主張する。わたしもそうかもしれないと思う。記者と読者が対話するようになれば、読者の思いを記者が知るようになれば、報道のあり方が変わるのではないだろうか。社会悪を暴いたときと、「明日、正式発表」と報じたときでは、読者からどちらに賞賛のコメントが多く寄せられるだろう。ゴミ問題で読者の声を紹介する記事と、役所の見解を紹介する記事では、読者はどちらを評価するだろう。役所などの取材先と記者仲間だけを意識した記事と、読者を意識した記事の、どちらが読者の共感を得ることができるだろう。
もちろん参加型ジャーナリズムがすべてを解決してくれるとは思わない。しかしジャーナリズムの再生に貢献してくれるかもしれない。今はそんな気がする。
【脚注】「ニュースの現場で考えること」
http://newsnews.exblog.jp/
「ブログ・ジャーナリズム 300万人のメディア」(湯川鶴章、高田昌幸、藤代裕之著、野良舎)p51-p53
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-11-30 18:58
| 本の原稿

