2005年 12月 17日
オープンソース・ジャーナリズム |
▼既存メディア対新興メディア
マスメディア並の影響力を持つようになったブロガーや市民記者サイトなどの新興メディアと、テレビや新聞、ラジオなどに代表される既存メディア。あえてこのような分け方をした場合、今後どちらが優勢になるのだろう。
両者の力関係の推移を占う上で、IT関係の人やITに詳しい人には、オープンソースに例えるのが分かりやすいかもしれない。事実、参加型ジャーナリズムをオープンソース・ジャーナリズムと呼ぶ人もいる。
オープンソースとは、ソフトウエア開発の1つの手法だ。通常のソフトウェア開発は、1つの企業に勤めるプログラマーたちが行う。代表例はマイクロソフト製の基本ソフト「ウィンドウズ」だ。
ところがオープンソースソフトウエアは、世界中の技術者が、ネットを通じてコードを公表し、よってたかって改良する。しかもまったくのボランティア精神でだ。代表例は、「リナックス」と呼ばれる基本ソフトだ。
オープンソースの開発手法を可能にしたのは、インターネットだ。世界中の協力者と、ほとんどコストをかけずにリアルタイムで情報を交換できる環境が整ったからこそ、リナックスのようなソフトの開発が可能になったのだ。
リナックスの利点は、ボランティアが開発したものだから無償で入手できること、ユニークな発想に基づく機能が追加される可能性があることなどだろう。一方で、ソフトに不具合が発生した際に、責任の所在が明確でないという問題がある。
ウィンドウズは、マイクロソフトがその潤沢な資金力を使って世界中の優秀な技術者を雇い入れることで、競争力を維持しているソフト。 その利点は、1つの思想に基づいて作られているので統一感があること、問題があればマイクロソフトの責任を問えることなどだ。
なぜ世界中の技術者が、まったくのボランティアでリナックスの開発に協力しているのだろうか。1つには、基本ソフト市場をマイクロソフト1社に独占されることに対する警戒心があるのだと思う。強引、傲慢ともいわれるマイクロソフトに対する反発もあるのかもしれない。
それではリナックス対ウィンドウズ、今後はどちらが優勢になるのだろうか。
現状はウィンドウズの牙城をリナックスが切り崩しつつあるというところだろうか。しばらくは両ソフトの共存は間違いないが、ウィンドウズに対するユーザーの不満はリナックスの改良作業の原動力になる。不満が高まればリナックスの改良は急ピッチで進むだろうし、不満がなくなればリナックスを盛り上げる気運も低下するだろう。
同様に、既存メディアに対する不満が新興メディア推進の原動力の1つになっていると思う。既存メディアに対する不満が高まれば、新興メディアはますます活気付くだろうし、不満がなくなれば推進力が低下するのではなかろうか。
新興メディアと既存メディアの関係を、自由経済体制と計画経済体制に例えてみてもおもしろい。既存メディアを計画経済にたとえるだけでマスコミ関係者からはお叱りを受けそうだが、情報財をよりよく伝達する方法の探究という経済学的な考え方をメディア論に応用することも可能ではなかろうか。
計画経済は国家が経済のかなりの部分を制御する。無駄がないのが利点だが、その分、社会の活力がそがれる感じがある。一方で自由経済は、無駄は多いが活力がある。どちらのほうが優れた仕組みなのだろうか。これまでの歴史では、自由主義経済に軍配が上がった形になっている。しかし米国流の自由経済が最も優れた仕組みかどうかといえば、異論があるところだろう。日本は自由経済をベースにしながらも、計画経済的な側面も持つ。来日した中国現代研究所の研究者からは「日本は中国より社会主義だ」といわれたことがある。
国際基督教大学社会科学研究所研究員の山口浩さんは、ブログH-Yamaguchi.netの「情報財の計画経済と市場経済」というエントリーで、わたしなどよりも数段優れた経済学的な考察を行っている。
さて、それでは既存メディアと新興メディアのどちらが今後優勢になるかという元の問いに戻れば、厳密には「分からない」としか言えない。ただ短期的、中期的には、今後も既存メディアが優勢のような気がする。特に根拠はない。そんな気がするだけだ。ただ長期的には、両者の関係がどうなるのかはまったく分からないと思っている。
脚注:
H-Yamaguchi.net「情報財の計画経済と市場経済」
http://www.h-yamaguchi.net/2005/05/post_1693.html
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
マスメディア並の影響力を持つようになったブロガーや市民記者サイトなどの新興メディアと、テレビや新聞、ラジオなどに代表される既存メディア。あえてこのような分け方をした場合、今後どちらが優勢になるのだろう。
両者の力関係の推移を占う上で、IT関係の人やITに詳しい人には、オープンソースに例えるのが分かりやすいかもしれない。事実、参加型ジャーナリズムをオープンソース・ジャーナリズムと呼ぶ人もいる。
オープンソースとは、ソフトウエア開発の1つの手法だ。通常のソフトウェア開発は、1つの企業に勤めるプログラマーたちが行う。代表例はマイクロソフト製の基本ソフト「ウィンドウズ」だ。
ところがオープンソースソフトウエアは、世界中の技術者が、ネットを通じてコードを公表し、よってたかって改良する。しかもまったくのボランティア精神でだ。代表例は、「リナックス」と呼ばれる基本ソフトだ。
オープンソースの開発手法を可能にしたのは、インターネットだ。世界中の協力者と、ほとんどコストをかけずにリアルタイムで情報を交換できる環境が整ったからこそ、リナックスのようなソフトの開発が可能になったのだ。
リナックスの利点は、ボランティアが開発したものだから無償で入手できること、ユニークな発想に基づく機能が追加される可能性があることなどだろう。一方で、ソフトに不具合が発生した際に、責任の所在が明確でないという問題がある。
ウィンドウズは、マイクロソフトがその潤沢な資金力を使って世界中の優秀な技術者を雇い入れることで、競争力を維持しているソフト。 その利点は、1つの思想に基づいて作られているので統一感があること、問題があればマイクロソフトの責任を問えることなどだ。
なぜ世界中の技術者が、まったくのボランティアでリナックスの開発に協力しているのだろうか。1つには、基本ソフト市場をマイクロソフト1社に独占されることに対する警戒心があるのだと思う。強引、傲慢ともいわれるマイクロソフトに対する反発もあるのかもしれない。
それではリナックス対ウィンドウズ、今後はどちらが優勢になるのだろうか。
現状はウィンドウズの牙城をリナックスが切り崩しつつあるというところだろうか。しばらくは両ソフトの共存は間違いないが、ウィンドウズに対するユーザーの不満はリナックスの改良作業の原動力になる。不満が高まればリナックスの改良は急ピッチで進むだろうし、不満がなくなればリナックスを盛り上げる気運も低下するだろう。
同様に、既存メディアに対する不満が新興メディア推進の原動力の1つになっていると思う。既存メディアに対する不満が高まれば、新興メディアはますます活気付くだろうし、不満がなくなれば推進力が低下するのではなかろうか。
新興メディアと既存メディアの関係を、自由経済体制と計画経済体制に例えてみてもおもしろい。既存メディアを計画経済にたとえるだけでマスコミ関係者からはお叱りを受けそうだが、情報財をよりよく伝達する方法の探究という経済学的な考え方をメディア論に応用することも可能ではなかろうか。
計画経済は国家が経済のかなりの部分を制御する。無駄がないのが利点だが、その分、社会の活力がそがれる感じがある。一方で自由経済は、無駄は多いが活力がある。どちらのほうが優れた仕組みなのだろうか。これまでの歴史では、自由主義経済に軍配が上がった形になっている。しかし米国流の自由経済が最も優れた仕組みかどうかといえば、異論があるところだろう。日本は自由経済をベースにしながらも、計画経済的な側面も持つ。来日した中国現代研究所の研究者からは「日本は中国より社会主義だ」といわれたことがある。
国際基督教大学社会科学研究所研究員の山口浩さんは、ブログH-Yamaguchi.netの「情報財の計画経済と市場経済」というエントリーで、わたしなどよりも数段優れた経済学的な考察を行っている。
比較的少数の既存メディアが情報財の流通を一手に握る状況は、このたとえでいえば計画経済だ。優秀な専門家が、愚かな一般大衆に、これが重要な情報だよとありがたくも教えてくださるわけだ。しかし歴史は、市場メカニズムを否定した計画経済がほぼ例外なく失敗したことを示している。問題は専門家たちが実はそれほど「優秀」ではなかったことと、計画の押し付け自体が人々のインセンティブを奪ったことだ。情報財はどうだろうか。既存メディアの方々がとても「優秀」だということは認めるが、もし情報財の市場化が進展することによって既存メディアの重みが低下することがあるとすれば、市場に比べて必ずしも優れているとはいえないことの傍証にはなるのではないか
さて、それでは既存メディアと新興メディアのどちらが今後優勢になるかという元の問いに戻れば、厳密には「分からない」としか言えない。ただ短期的、中期的には、今後も既存メディアが優勢のような気がする。特に根拠はない。そんな気がするだけだ。ただ長期的には、両者の関係がどうなるのかはまったく分からないと思っている。
脚注:
H-Yamaguchi.net「情報財の計画経済と市場経済」
http://www.h-yamaguchi.net/2005/05/post_1693.html
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2005-12-17 07:07
| 本の原稿