2006年 01月 06日
自分のブログも炎上 |
小池編集長だけではなかった。その後も「炎上」する記者ブログが相次いだ。炎上した記者ブログの1つを運営していた某社の記者A君とは、炎上する以前から個人的にメールでのやり取りをしていた。炎上の最中もわたしのところにメールで経緯を報告してきてくれたのだが、ネット上で糾弾される恐わさが、メールを通じてわたしにまで伝わってきたものだった。A君の要請を尊重し、A君がだれであるのかを特定できない形で簡単な経緯を説明したい。
わたしのブログのように当たり障りのないことを書き連ねるブログと違って、A君のブログは時事問題に関してはっきりと自分の意見を主張していた。それはそれですばらしいことだと思う。ただコメント爛に当然反対意見も寄せらる。これに対する対処法が間違っていたとA君は言う。
誹謗中傷が殺到したときに気が動転してしまい、冷静さを失ってしまったとA君は言う。冷静であれば、誹謗中傷を無視するのか、削除するのか、謝罪すべきところは謝罪すべきなのか、判断できたはずだった。気が動転したA君の反応を、読者は不誠実と受け止めた。騒ぎはさらに拡大した。議論は2ちゃんねるにまで飛び火し、事態が収拾する兆しは一向に見えてこなかった。
A君の本名、住所などの個人情報が次々と暴かれていった。運転免許証のコピーまでネット上ににさらされた。よく言えば、無数のネットユーザーが手分けして真実を探り出す分散型の市民ジャーナリズムだった。悪く言えば、ネットユーザーが暴徒と化した魔女狩りだった。「今から家に押し掛ける」「勤務先を割り出して晒す」「クビになるぞ」などといった書き込みに、A君は震え上がったという。一時は、電話やメールの着信音にも、びくびくしていた。A君は「本当に身の危険を感じた」と連絡してきた。
そしてA君はブログを閉鎖、ネット上の彼の痕跡を消し去った。
▼自分のブログも炎上
実はわたし自身のブログも炎上したことがある。
きっかけとなったのは、「マスコミ批判にマスコミ人が反論」と題したエントリーだった。新潟中越地震を機に、ネット上でマスコミ批判がまたまた起こったのだが、その安易でワンパターンな批判に対してマスコミ関係者が反論した。ネット上でのマスコミ関係者の反論はめずらしかった。反論は対話の第一歩である。マスコミと読者の対話の例として記録しておくことを目的に、このエントリーを掲載した。
取材現場での傍若無人な振る舞いなど、批判されてしかるべき問題をマスコミは多く抱えている。それは事実。だからといってステレオタイプな色眼鏡で見てほしくない。現状を正しく認識してもらいたい。そんな思いで書かれた報道関係者のブログを引用し、まとめたのが、「マスコミ批判にマスコミ人が反論」というエントリーだった。中越地震に関するエントリーでけではなく、記者クラブ問題に関するマスコミ側の言い分も引用した。
ところでわたし自身、このエントリーで主張したいことは何もなかった。マスコミ関係者がマスコミ批判に反論しているというその事実だけが、わたしにとって興味深いだけだった。
それでもエントリーの最後に、わたしの主張のようなまとめの一言を書いた。別に書く必要はなかったのに、書いた。多分、文章を書く際に、まとめの文を書くことが習性になっているのだろう。別に主張したくもないことを、この最後の文で書いてしまった。それが批判の嵐を呼ぶようになるとは、まったく知らずに・・・。
その一言とは次のようなものだった。
「傍若無人なマスコミ人もいるが、まじめに取り組んでいるマスコミ人も多いのです」
実にくだらない一文だ。しかしマスコミ批判で盛り上がっている人たちにとって、標的とするのには十分な一文だった。このエントリーに対して、67件のコメントと28件のトラックバックが寄せられた。
実はネット上にマスコミ批判が存在することをしらないマスコミ関係者は意外に多い。自分たちは市民の側に立って権力を監視していて、そのことで市民からも評価されている、と信じて疑わない新聞記者をわたしは何人も知っている。「マスゴミ」という表現を聞いたことがない記者も多い。
マスコミ批判がわたしのブログに寄せられた機会をとらえて、できるだけ多くのマスコミ関係者にネット上のマスコミ批判の現状を知ってもらいたかった。幸いにもわたしのブログは、マスコミ関係者の読者の割合が多い。非常に多くのコメントが寄せられたが、できればマスコミ関係者に全部読んでもらいたかった。そこで次のエントリーで、まず最初に「前回の書き込みのコメント欄をご覧下さい。わたしも結構ボコボコにされています」と書いた。
マスコミ関係者に向けたメッセージだったが、これがマスコミ批判の火に油を注ぐ結果となった。
決して批判的なコメントから逃げていたわけでもないし、黙殺しようとしたわけでもなかった。その反対にできるだけ、多くのマスコミ関係者に読んでもらいたいと思って反論を急がなかった。しかし残念ながら、その思いは伝わらなかった。わたしは次のエントリーで、改めて自分自身の主張を展開した。少し長くなるが、全文を掲載したい。
このエントリーを境に、この件に関する批判的なコメントはいっさいこなくなった。
何がさらなる炎上をくい止めたのか、正直言ってよく分からない。もしもう一度、コメント欄が荒れた場合、うまく乗り切る自信もない。
また批判的なコメントに動じていないように受け止められたが、結構精神的につらかったことも記憶している。文章を書くことを仕事にするわたしだが、このような批判の集中攻撃を受けた経験は過去になかった。「ネット上で多くの人に批判されてるんだ」。妻にだけ一言、弱音をはいたことを覚えている。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
わたしのブログのように当たり障りのないことを書き連ねるブログと違って、A君のブログは時事問題に関してはっきりと自分の意見を主張していた。それはそれですばらしいことだと思う。ただコメント爛に当然反対意見も寄せらる。これに対する対処法が間違っていたとA君は言う。
誹謗中傷が殺到したときに気が動転してしまい、冷静さを失ってしまったとA君は言う。冷静であれば、誹謗中傷を無視するのか、削除するのか、謝罪すべきところは謝罪すべきなのか、判断できたはずだった。気が動転したA君の反応を、読者は不誠実と受け止めた。騒ぎはさらに拡大した。議論は2ちゃんねるにまで飛び火し、事態が収拾する兆しは一向に見えてこなかった。
A君の本名、住所などの個人情報が次々と暴かれていった。運転免許証のコピーまでネット上ににさらされた。よく言えば、無数のネットユーザーが手分けして真実を探り出す分散型の市民ジャーナリズムだった。悪く言えば、ネットユーザーが暴徒と化した魔女狩りだった。「今から家に押し掛ける」「勤務先を割り出して晒す」「クビになるぞ」などといった書き込みに、A君は震え上がったという。一時は、電話やメールの着信音にも、びくびくしていた。A君は「本当に身の危険を感じた」と連絡してきた。
そしてA君はブログを閉鎖、ネット上の彼の痕跡を消し去った。
▼自分のブログも炎上
実はわたし自身のブログも炎上したことがある。
きっかけとなったのは、「マスコミ批判にマスコミ人が反論」と題したエントリーだった。新潟中越地震を機に、ネット上でマスコミ批判がまたまた起こったのだが、その安易でワンパターンな批判に対してマスコミ関係者が反論した。ネット上でのマスコミ関係者の反論はめずらしかった。反論は対話の第一歩である。マスコミと読者の対話の例として記録しておくことを目的に、このエントリーを掲載した。
取材現場での傍若無人な振る舞いなど、批判されてしかるべき問題をマスコミは多く抱えている。それは事実。だからといってステレオタイプな色眼鏡で見てほしくない。現状を正しく認識してもらいたい。そんな思いで書かれた報道関係者のブログを引用し、まとめたのが、「マスコミ批判にマスコミ人が反論」というエントリーだった。中越地震に関するエントリーでけではなく、記者クラブ問題に関するマスコミ側の言い分も引用した。
ところでわたし自身、このエントリーで主張したいことは何もなかった。マスコミ関係者がマスコミ批判に反論しているというその事実だけが、わたしにとって興味深いだけだった。
それでもエントリーの最後に、わたしの主張のようなまとめの一言を書いた。別に書く必要はなかったのに、書いた。多分、文章を書く際に、まとめの文を書くことが習性になっているのだろう。別に主張したくもないことを、この最後の文で書いてしまった。それが批判の嵐を呼ぶようになるとは、まったく知らずに・・・。
その一言とは次のようなものだった。
「傍若無人なマスコミ人もいるが、まじめに取り組んでいるマスコミ人も多いのです」
実にくだらない一文だ。しかしマスコミ批判で盛り上がっている人たちにとって、標的とするのには十分な一文だった。このエントリーに対して、67件のコメントと28件のトラックバックが寄せられた。
「これほど不勉強で不遜な態度をとる人間の多い業界は自分は知らないです」「あなたがなんと吠えようが、結果が伴わなければ無意味。いい人もいるなんていうならやくざにだっていい人はいるだろうし、警官にだって悪い人間はいる。そんなこと言い出したらきりがない」「この記事は反論でもなんでもなく、ただの論理のすり替え、それどころか単に良い人も悪い人もいるという事実を提示しただけに思えます。こういうことをするのがマスゴミと言われる所以だと思うのですが…」「志が高い?アホか。そういうことは、自分とこの膿を全部だす努力をしてから言え」「このようなコメントを載せてしまう段階で、マスコミ者としての思い上がりがあるとお考えになりませんか?」「それこそblogに反論する暇があるならマスコミの人間としてやるべき事があるはずでは?あぁ、だからマスゴミっていうんだな、貴方を含めて」
実はネット上にマスコミ批判が存在することをしらないマスコミ関係者は意外に多い。自分たちは市民の側に立って権力を監視していて、そのことで市民からも評価されている、と信じて疑わない新聞記者をわたしは何人も知っている。「マスゴミ」という表現を聞いたことがない記者も多い。
マスコミ批判がわたしのブログに寄せられた機会をとらえて、できるだけ多くのマスコミ関係者にネット上のマスコミ批判の現状を知ってもらいたかった。幸いにもわたしのブログは、マスコミ関係者の読者の割合が多い。非常に多くのコメントが寄せられたが、できればマスコミ関係者に全部読んでもらいたかった。そこで次のエントリーで、まず最初に「前回の書き込みのコメント欄をご覧下さい。わたしも結構ボコボコにされています」と書いた。
マスコミ関係者に向けたメッセージだったが、これがマスコミ批判の火に油を注ぐ結果となった。
「『ボコボコ』とか『感情的』と表現することで、多数得られたコメントに対する反応をしないことを正当化していませんか。荒削りな中にも真摯な感情を吐露する書き込みが数々見受けられると思うのですが。『ははぁ、これだけ荒れるということはこじれているのですねぇハハハ』で済ませられては、一縷の望みをかけてコメントした人たちの気持ちを再度踏みにじることになるのではないですか」「その通り。湯川さんには反論してくれないとこちらも困る」「同感ですね。こういう議論をブログ上で活発にするのが主旨であり、意義であるのだと思ってました。それがマスコミ、ひいては社会の自浄作用になることを願いつつ。情報の送り手が送るだけ送って、あとは受取手の勝手でしょうと言う態度、そのものが現在のマスコミの抱える問題の端緒ではないでしょうか」「『反論をすぐにしろ』というつもりではないです。ただ『ほらこれを見て下さい、私だってボコボコにされていますよ』と自らの記事に付いたコメントを晒すかのように示し、あげく『反論できません』と切って捨てる。他人のブログに対して自分のブログでオブジェクションするけれど、自らの記事に対する反論・反応に対して『何も言いたくない』。これで議論も何もありますか」
決して批判的なコメントから逃げていたわけでもないし、黙殺しようとしたわけでもなかった。その反対にできるだけ、多くのマスコミ関係者に読んでもらいたいと思って反論を急がなかった。しかし残念ながら、その思いは伝わらなかった。わたしは次のエントリーで、改めて自分自身の主張を展開した。少し長くなるが、全文を掲載したい。
批判に対する反論
新潟中越地震を端緒にしたマスコミ批判を何らかの形で記録しておきたい、という気持ちだけで「マスコミ批判にマスコミが反論」という記事を書いた。これといった主張もないまま無理やり結論づけた駄文だったため、多くの批判を招く結果になった。バッシングに遭うわたしを気遣ってくださるコメントが幾つか寄せられている。みなさん本当にありがとう。ginkokobaさん、MAOさん、g-dayさんが、「ゆっくり反論すればいいよ」とおっしゃってくださっているのですが、あえて筆を取ることにします。
この記事をきっかけに「切込隊長」という超有名ブロガーが、この「ネットは・・・」を紹介してくださった。その結果、初めてこのブログにアクセスしてくださったかたもたくさんいたのだと思う。
このブログを始めて5カ月。目指すべき「参加型ジャーナリズム」の可能性の枠組みぐらいは見えてきたように思う。批判的な意味であれ多くの人が注目してくれているのであれば、この機会にこれまでの成果をここで公表し、できるだけ多くの人にわたしが何を考えているのか、ジャーナリズムは今後どの方向に進むべきなのか、を知ってもらいたいと思う。
まず数多くいただいた批判的なコメントに関して、自分の気持ちを述べたい。
今回の地震の現場でのマスコミ人の傍若無人な振る舞いについては弁解の余地もない。また問題は今回だけではない。これまでも同じような問題は何度も起こっている。マスコミ業界の人間として、こうした振る舞いを生み出す風土を作った責任は、当然わたしにもある。ご迷惑を受けられた被災者の方、今回以外にもマスコミ被害に遭われた方たちには、心からお詫びしたいと思います。本当に申し訳ありませんでした。こうした横暴が横行しないように今後もできる限りの努力を続けたいと思います。
さて、ではこうした事態が再発しないようにどうすればいいか。「倫理委員会のようなものを発足させてはどうか」という意見をいただいた。実は報道被害をなくそうという委員会や組織は業界団体内にもあるし、各社持っているのではないだろうか。同様のテーマのシンポジウムなども頻繁に開催されていると思う。「自分の業界の膿はまず、ご自分でお出しください」とacoyoさんはおっしゃる。業界として、「膿を出す」努力は継続していると思う。それでも「膿」は減らないのだ。
「メディアは『自浄能力』をもっているのでしょうか?」とノートリアスさんは問う。自浄能力は既にないとの指摘もあった。
わたしはやはり、マスコミが一般市民とかけ離れた存在になったことに問題があると思う。市民とかけ離れた存在のままでは、自浄能力はなかなか発揮できないだろう。
しかしマスコミの取材や編集のプロセスの中に一般市民が入り込めばどうだろう。事態は急速に改善されるのではなかろうか。一般市民が編集権を持つわけだ。
今まではそれが理想だと分かっていても実現できなかった。しかし今は違う。ネットがある。ブログなどの新しいコミュニケーションツールが次々と登場してきている。編集権を読者コミュニティーに分散させることが可能な時代になろうとしているわけだ。これがわたしが理想とする「参加型ジャーナリズム」である。取材記者の傍若無人な振る舞い、最初に結論ありきの取材、メディアスクラムなど、現在のジャーナリズムが抱える問題の多くは、編集権を持つ読者コミュニティーが瞬時に糾弾、粉砕してしまうだろう。
では究極の参加型ジャーナリズムとは、具体的にはどのような形になるのだろうか。今はだれも予想だにできない、と思う。しかしその最初の形としては、韓国の新聞社が始めたような記者ブログであったり、市民記者で運営する韓国オーマイニュースのような新興報道機関が有望だろう。
一般市民の声を聞こうと考えるマスコミは記者ブログに乗り出すだろう。マスコミが今後も一般市民の声を無視し続けるのであれば、ライブドアかどこかの新興報道機関に一般市民の支持が集まるのだと思う。
どちらの形から入るのであれ、21世紀のジャーナリズムは市民参加型になるのは間違いないと思う。世界的にみても、この流れはもう変えられないだろう。
ただ日本で果たして参加型ジャーナリズムが成功するだろうか。課題は二つある。
1つは、一般市民の間で既存のジャーナリズムを打破したいという思いが十分に高まるのかどうか、という点だ。
今回のようにネット上でマスコミ批判で盛り上がることは、これまでにも何度もあった。しかし、大半の国民が新聞に信頼を寄せているというアンケート調査や、先進国の中で日本国民は最もマスコミを信頼しているという統計結果などを見たことがある。本当はどちらなのだろう。ノートリアスさんは「今のメディアのありようが、社会にとって『容認可能』なのか『容認不可』なのか」と問う。わたしもそこのところを知りたい。容認不可ならば、参加型ジャーナリズム確立への動きは今後、ますます大きなうねりとなるだろうと思う。
もう1つは、一般論として日本人が大人の議論をできるのかどうか、ということだ。
拙著「ネットは新聞を殺すのか」はいろいろな批判をいただいた。中でも最も批判されたのが、2ちゃんねるを「草の根ジャーナリズム」と形容したことだった。多くの人は、2ちゃんねるで行われている議論を「大人の議論」とは認めないことが分かった。人格攻撃や誹謗中傷が存在する主張は、日本ではまっとうな議論ともジャーナリズムとも認められないのだ。
米国人のように幼いころから議論の訓練を受けていない日本人に、議論型ジャーナリズムを実現できるのだろうか。
幸いにも、このブログのコメント欄で行われている議論は紳士的なものが圧倒的に多く、うれしく思う。こうした議論を促進するような雰囲気作りにも力を入れなければならないのだと思う。
このエントリーを境に、この件に関する批判的なコメントはいっさいこなくなった。
何がさらなる炎上をくい止めたのか、正直言ってよく分からない。もしもう一度、コメント欄が荒れた場合、うまく乗り切る自信もない。
また批判的なコメントに動じていないように受け止められたが、結構精神的につらかったことも記憶している。文章を書くことを仕事にするわたしだが、このような批判の集中攻撃を受けた経験は過去になかった。「ネット上で多くの人に批判されてるんだ」。妻にだけ一言、弱音をはいたことを覚えている。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2006-01-06 07:33
| 本の原稿