2006年 01月 12日
メディアの価値は情報ハブとしての価値 |
さて次に「紙の新聞事業は今後も安泰かどうか」を考えたい。
情報伝達媒体としての紙の役割が減少していくとしても、それは比較的ゆっくるとした減少のようだし、ここ何年かで紙の新聞がなくなるということはないだろう。何十年後もどこかでだれかが紙の新聞を印刷し配達していることだろうと思う。
だからそういう意味では「紙の新聞はなくならない」。「それでも新聞はなくならない」とことあるごとに強調したがる一部新聞関係者の主張は、そういう意味では正しい。
しかしわたし自身は、そういう意味での「紙の新聞はなくなるか、なくならないか」の議論は、やっても無意味だと思っているし、実は関心もない。
「新聞がなくなる日」を書いた元毎日新聞編集長の歌川冷三さんは、彼の言う「新聞がなくなる日」は、大新聞社の現在のビジネスモデルが崩壊する日、大新聞社の経営に赤信号がともる日のことだと言う。
そして、発行部数や広告収入の減少傾向をみる限り、大新聞社の経営に赤信号がともる日が、数年後にもくるかもしれない、と予測する。
新聞関係者が関心を持たなければならないのは、赤信号がともる日が本当にくるのか、くるとすればいつなのか、ということだと思う。
わたしは新聞社の発行部数や広告収入のことをよくしらないので、この辺りの予測はできない。ただもし歌川さんの読みが正しければ、日本の商業ジャーナリズムの地殻変動が目前に迫っていることになる。
商業ジャーナリズムが壊滅状態に陥っても、草の根ジャーナリズムが機能してくれればいい。ただ草の根ジャーナリズムの可能性は、まだ未知数だ。わたし自身が商業ジャーナリズムに身を置いているということもあるが、やはり商業ジャーナリズムの新しいビジネスモデルも検討しておくべきだと思う。
▼新聞「牛丼」論
争点となることが多いもう一つの点は、メディアの価値はどこにあるのか、ということだ。
新聞の価値とは、ニュースの価値である。多くの新聞記者はそう考えている。わたし自身も自分の書いた記事が価値の高いものであってほしいと思っている。しかし実際に新聞記者以外の人はどう考えているのだろう。
新聞は牛丼のようなものである、という説を聞いたことがある。最初に提唱したのは、金融情報ベンダー、フィスコの三木茂社長らしい。
吉野屋、松屋と牛丼はいろいろあるが、味は微妙に違う。吉野屋の牛丼が好きな人もいるし、松屋の牛丼でなければだめ、という人もいる。だが食材は、肉、玉ねぎ、ご飯、とだいたいどこも同じ。味で牛丼を選ぶのだが、お腹をいっぱいにしてくれるのは調味料ではなく、ご飯などの食材だ。店舗があちらこちらにあって便利だし、注文すればすぐに牛丼が出る、というサービスもいい。そうした便利さ、サービスも含めての、お代300円ということだ。
新聞も朝日、読売、毎日、産経と、論調は微妙に違うものの、テレビ欄など同じ情報も結構載っている。広告のチラシが好きという読者も多い。そうした総合的な情報のパッケージが毎朝、家に届けられるというサービスがいい、という意見もある。
「新聞を牛丼に例えるな」と誇り高き新聞記者からしかられそうだが、要は新聞も牛丼もサービスまで含めたパッケージに価値がある、ということだ、
▼メディアの情報ハブとしての価値
わたしは新聞やテレビといったメディアの価値を、別の角度から見ることがある。1つのメディアの価値は、個々の情報コンテンツの価値を合わせたものを上回っているのではないか、と思うのだ。つまり新聞やテレビといったメディアの最大の価値は、情報ハブとしての価値、情報流通市場としての価値ではないかと思う。
わたしは「ネットは新聞を殺すのかblog」というブログを始めるにあたって、知り合いの新聞関係者数十人にお知らせのメールを送った。当然のことながらブログ開始後間もないころのアクセス数は、一日数十人程度だった。
わたしは、新しいジャーナリズムに関係のあるような話なら、とりあえず何でもブログに掲載していった。ブログはあくまで自分の時間に趣味としてするわけだから、会社の名刺を使ってブログのために取材はできない。それでも取材の際に得た関連情報で、公開しても差し支えない情報、すでに本業のほうで記事にして公開情報になっている情報はどんどん掲載した。わたし一人で情報を集め、わたし一人でエントリーを書いた。
半年ほどたってからだろうか。アクセスも増え始めた。1日に数千人から一万人近くのアクセスがある日もあった。このころから、新しい形のジャーナリズムに関する情報がコメント欄やトラックバックで次々と寄せられるようになった。直接メールで情報を寄せてくださる方もいた。
ライブドアが参加型ジャーナリズムのプロジェクトを計画しているという情報も、読者からいただいた。グーグルニュースから、特定の新聞社の記事が消えたり、復活したりするたびに知らせてくださる方もいた。神奈川新聞がニュースサイトをブログ形式に変えたというニュースも、寄せられたトラックバックで知った。
わたしのブログに載せた価値のあるニュースのほとんどは、読者から寄せられたものだった。
わたしの役どころが、情報の出し手から、情報の交通整理係りに変わったのだ。わたしのブログが、新しいジャーナリズムに関する情報のハブになったのだと思う。
情報の交通整理係としての責任もある。ある新聞社に関する情報があるブログに載った。その情報の真偽は分からなかったが十分にあり得る話だし、おもしろい話だったので、リンクを張って簡単に紹介した。ところがその新聞社の関係者から、その情報は間違いであるとの抗議のメールが寄せられた。「湯川さんのブログのように影響力のあるブログがリンクを張るだけで、その情報がまるで本当のように受け取れられてしまうのです」というのだ。情報の交通整理係として情報の真偽を見分けて取捨選択することまで期待されているのだと思った。
わたしの発信する情報の価値以上に、情報ハブとしての価値を持ち始めたのだと思う。
そこにいけば、あらゆる情報が集まってくる。玉石混淆の情報の中から「玉」の情報だけが、クローズアップされている。それが情報ハブである。
新聞やテレビといったメディアも、情報ハブとしての価値が高いのではなかろうか。新潟日報に停電の情報がメールで寄せられたのも、新潟日報が県民の間で情報ハブと認識されているからだろう。停電でどこからも情報を入手できない中で、新潟日報のサイトにいけば情報があるのではないか。ほかの人の情報が参考になったように、自分の情報がほかの人の参考になるのではないか。そう考えた人たちがアクセスし、情報を提供したのだろう。
新聞記事の一本いっぽんに価値がないと言っているのではない。新聞記事が集まることで新聞が情報のハブになり、さらなる情報が寄せられるようになる。情報を取捨選択することにまで価値が生じる。そうすることで、一本いっぽんの記事の価値の合計を超える価値を生み出すのだと思う。
自分の記事を誇りに思う記者には申し訳ないが、情報ハブを形成できなければ記事が生む収益は大幅に低下することになると思う。
▼情報ハブ運営者と情報提供者の力関係
情報ハブという側面からメディア業界のビジネスモデルを大別すると、それは2つしかない。情報ハブの運営者と、情報提供者(コンテンツプロバイダー)の2つである。
どちらのほうが収益率がいいか。
特定の分野で、唯一無二の情報ハブを形成した場合、その情報ハブの運営者は絶対的な影響力を持つだろう。
数年前にNTTドコモが、iモードという閉鎖されたインターネット空間を作り出した。一種の情報市場といっていいだろう。
話を進める前に、混乱を避けるために、「情報市場」と「情報ハブ」のわたしなりの定義をしておきたい。「情報市場」というのは、情報が売買されたり、やりとりされる仕組みのこと、と定義したい。一方の「情報ハブ」は、自然と情報が集まり、交換されるようになる場、サイトのこと、と定義する。最初から情報のやりとりを目的として作り上げられたものを「市場」、自然に発生したものを「ハブ」としたい。よって「情報市場」の中に、分野の異なる複数の「情報ハブ」が自然にできるということは可能だ。
コンテンツプロバイダーとの力関係において、「情報市場」も「情報ハブ」も同じような立場にあるので、ここではドコモのiモードという「情報市場」を例にとって話を進めたい。
さて当時は、iモードが唯一無二の携帯電話インターネットの情報市場だったNTTドコモの本社へ行くと、受け付け前に常に数十人の人たちが列を作って順番を待っていた。情報市場に入れてもらいたいコンテンツ提供者たちだった。この現象は「ドコモ詣」と形容されることがあった。神のように「詣」でられるほど、ドコモは影響力を持っていたわけだ。
その後、auやボーダフォンが参入、携帯電話インターネットの情報市場が複数誕生した。それに伴って「ドコモ詣」も姿を消した。ドコモがiモードに参加させてくれないのなら、コンテンツプロバイダーはボーダフォンへ行く。情報市場運営者とコンテンツプロバイダーの力関係に変化が生じたのだ。
唯一無二の情報市場の中では、コンテンツプロバイダーの力は弱い。反対に、情報市場が複数存在すれば、唯一無二のコンテンツを持つコンテンツプロバイダーの力は強まる。力とは交渉力であり、それはすなわち収益力である。
ほとんどの既存メディア企業は、これまで情報市場や情報ハブを形成してたからこそ、情報が寄せられ、収益を上げることができたのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
情報伝達媒体としての紙の役割が減少していくとしても、それは比較的ゆっくるとした減少のようだし、ここ何年かで紙の新聞がなくなるということはないだろう。何十年後もどこかでだれかが紙の新聞を印刷し配達していることだろうと思う。
だからそういう意味では「紙の新聞はなくならない」。「それでも新聞はなくならない」とことあるごとに強調したがる一部新聞関係者の主張は、そういう意味では正しい。
しかしわたし自身は、そういう意味での「紙の新聞はなくなるか、なくならないか」の議論は、やっても無意味だと思っているし、実は関心もない。
「新聞がなくなる日」を書いた元毎日新聞編集長の歌川冷三さんは、彼の言う「新聞がなくなる日」は、大新聞社の現在のビジネスモデルが崩壊する日、大新聞社の経営に赤信号がともる日のことだと言う。
そして、発行部数や広告収入の減少傾向をみる限り、大新聞社の経営に赤信号がともる日が、数年後にもくるかもしれない、と予測する。
新聞関係者が関心を持たなければならないのは、赤信号がともる日が本当にくるのか、くるとすればいつなのか、ということだと思う。
わたしは新聞社の発行部数や広告収入のことをよくしらないので、この辺りの予測はできない。ただもし歌川さんの読みが正しければ、日本の商業ジャーナリズムの地殻変動が目前に迫っていることになる。
商業ジャーナリズムが壊滅状態に陥っても、草の根ジャーナリズムが機能してくれればいい。ただ草の根ジャーナリズムの可能性は、まだ未知数だ。わたし自身が商業ジャーナリズムに身を置いているということもあるが、やはり商業ジャーナリズムの新しいビジネスモデルも検討しておくべきだと思う。
▼新聞「牛丼」論
争点となることが多いもう一つの点は、メディアの価値はどこにあるのか、ということだ。
新聞の価値とは、ニュースの価値である。多くの新聞記者はそう考えている。わたし自身も自分の書いた記事が価値の高いものであってほしいと思っている。しかし実際に新聞記者以外の人はどう考えているのだろう。
新聞は牛丼のようなものである、という説を聞いたことがある。最初に提唱したのは、金融情報ベンダー、フィスコの三木茂社長らしい。
吉野屋、松屋と牛丼はいろいろあるが、味は微妙に違う。吉野屋の牛丼が好きな人もいるし、松屋の牛丼でなければだめ、という人もいる。だが食材は、肉、玉ねぎ、ご飯、とだいたいどこも同じ。味で牛丼を選ぶのだが、お腹をいっぱいにしてくれるのは調味料ではなく、ご飯などの食材だ。店舗があちらこちらにあって便利だし、注文すればすぐに牛丼が出る、というサービスもいい。そうした便利さ、サービスも含めての、お代300円ということだ。
新聞も朝日、読売、毎日、産経と、論調は微妙に違うものの、テレビ欄など同じ情報も結構載っている。広告のチラシが好きという読者も多い。そうした総合的な情報のパッケージが毎朝、家に届けられるというサービスがいい、という意見もある。
「新聞を牛丼に例えるな」と誇り高き新聞記者からしかられそうだが、要は新聞も牛丼もサービスまで含めたパッケージに価値がある、ということだ、
▼メディアの情報ハブとしての価値
わたしは新聞やテレビといったメディアの価値を、別の角度から見ることがある。1つのメディアの価値は、個々の情報コンテンツの価値を合わせたものを上回っているのではないか、と思うのだ。つまり新聞やテレビといったメディアの最大の価値は、情報ハブとしての価値、情報流通市場としての価値ではないかと思う。
わたしは「ネットは新聞を殺すのかblog」というブログを始めるにあたって、知り合いの新聞関係者数十人にお知らせのメールを送った。当然のことながらブログ開始後間もないころのアクセス数は、一日数十人程度だった。
わたしは、新しいジャーナリズムに関係のあるような話なら、とりあえず何でもブログに掲載していった。ブログはあくまで自分の時間に趣味としてするわけだから、会社の名刺を使ってブログのために取材はできない。それでも取材の際に得た関連情報で、公開しても差し支えない情報、すでに本業のほうで記事にして公開情報になっている情報はどんどん掲載した。わたし一人で情報を集め、わたし一人でエントリーを書いた。
半年ほどたってからだろうか。アクセスも増え始めた。1日に数千人から一万人近くのアクセスがある日もあった。このころから、新しい形のジャーナリズムに関する情報がコメント欄やトラックバックで次々と寄せられるようになった。直接メールで情報を寄せてくださる方もいた。
ライブドアが参加型ジャーナリズムのプロジェクトを計画しているという情報も、読者からいただいた。グーグルニュースから、特定の新聞社の記事が消えたり、復活したりするたびに知らせてくださる方もいた。神奈川新聞がニュースサイトをブログ形式に変えたというニュースも、寄せられたトラックバックで知った。
わたしのブログに載せた価値のあるニュースのほとんどは、読者から寄せられたものだった。
わたしの役どころが、情報の出し手から、情報の交通整理係りに変わったのだ。わたしのブログが、新しいジャーナリズムに関する情報のハブになったのだと思う。
情報の交通整理係としての責任もある。ある新聞社に関する情報があるブログに載った。その情報の真偽は分からなかったが十分にあり得る話だし、おもしろい話だったので、リンクを張って簡単に紹介した。ところがその新聞社の関係者から、その情報は間違いであるとの抗議のメールが寄せられた。「湯川さんのブログのように影響力のあるブログがリンクを張るだけで、その情報がまるで本当のように受け取れられてしまうのです」というのだ。情報の交通整理係として情報の真偽を見分けて取捨選択することまで期待されているのだと思った。
わたしの発信する情報の価値以上に、情報ハブとしての価値を持ち始めたのだと思う。
そこにいけば、あらゆる情報が集まってくる。玉石混淆の情報の中から「玉」の情報だけが、クローズアップされている。それが情報ハブである。
新聞やテレビといったメディアも、情報ハブとしての価値が高いのではなかろうか。新潟日報に停電の情報がメールで寄せられたのも、新潟日報が県民の間で情報ハブと認識されているからだろう。停電でどこからも情報を入手できない中で、新潟日報のサイトにいけば情報があるのではないか。ほかの人の情報が参考になったように、自分の情報がほかの人の参考になるのではないか。そう考えた人たちがアクセスし、情報を提供したのだろう。
新聞記事の一本いっぽんに価値がないと言っているのではない。新聞記事が集まることで新聞が情報のハブになり、さらなる情報が寄せられるようになる。情報を取捨選択することにまで価値が生じる。そうすることで、一本いっぽんの記事の価値の合計を超える価値を生み出すのだと思う。
自分の記事を誇りに思う記者には申し訳ないが、情報ハブを形成できなければ記事が生む収益は大幅に低下することになると思う。
▼情報ハブ運営者と情報提供者の力関係
情報ハブという側面からメディア業界のビジネスモデルを大別すると、それは2つしかない。情報ハブの運営者と、情報提供者(コンテンツプロバイダー)の2つである。
どちらのほうが収益率がいいか。
特定の分野で、唯一無二の情報ハブを形成した場合、その情報ハブの運営者は絶対的な影響力を持つだろう。
数年前にNTTドコモが、iモードという閉鎖されたインターネット空間を作り出した。一種の情報市場といっていいだろう。
話を進める前に、混乱を避けるために、「情報市場」と「情報ハブ」のわたしなりの定義をしておきたい。「情報市場」というのは、情報が売買されたり、やりとりされる仕組みのこと、と定義したい。一方の「情報ハブ」は、自然と情報が集まり、交換されるようになる場、サイトのこと、と定義する。最初から情報のやりとりを目的として作り上げられたものを「市場」、自然に発生したものを「ハブ」としたい。よって「情報市場」の中に、分野の異なる複数の「情報ハブ」が自然にできるということは可能だ。
コンテンツプロバイダーとの力関係において、「情報市場」も「情報ハブ」も同じような立場にあるので、ここではドコモのiモードという「情報市場」を例にとって話を進めたい。
さて当時は、iモードが唯一無二の携帯電話インターネットの情報市場だったNTTドコモの本社へ行くと、受け付け前に常に数十人の人たちが列を作って順番を待っていた。情報市場に入れてもらいたいコンテンツ提供者たちだった。この現象は「ドコモ詣」と形容されることがあった。神のように「詣」でられるほど、ドコモは影響力を持っていたわけだ。
その後、auやボーダフォンが参入、携帯電話インターネットの情報市場が複数誕生した。それに伴って「ドコモ詣」も姿を消した。ドコモがiモードに参加させてくれないのなら、コンテンツプロバイダーはボーダフォンへ行く。情報市場運営者とコンテンツプロバイダーの力関係に変化が生じたのだ。
唯一無二の情報市場の中では、コンテンツプロバイダーの力は弱い。反対に、情報市場が複数存在すれば、唯一無二のコンテンツを持つコンテンツプロバイダーの力は強まる。力とは交渉力であり、それはすなわち収益力である。
ほとんどの既存メディア企業は、これまで情報市場や情報ハブを形成してたからこそ、情報が寄せられ、収益を上げることができたのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」

このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
by tsuruaki_yukawa
| 2006-01-12 18:00
| 本の原稿

