共同ブログ騒動にみる参加型ジャーナリズムの形 |
そのときのインタビュー記事からの抜粋
わたしは新聞社を経営しているわけじゃないので分からないが、もしわたしが経営者なら次のようにします。まず記者全員にウェブログを開設するように命じます。それから読者にもウェブログを開設するように勧めます。エディターに記者と読者のウェブログの両方を読ませ、エディターのウェブログ上で面白いニュースへリンクを張らせるようにします。記者の情報、読者の情報は問いません。重要な方、面白い方の情報にリンクを張るわけです。読者と同じ程度の情報量や分析力さえ持たない記者のウェブログにはリンクが張られなくなる。その記者は廃業です。読者が集めてこれない情報、オリジナルな視点、解説を提供できる記者だけが生き残れるのです。これが読者を巻き込んだ新しいタイプのジャーナリズムの形です。
エディターの役割は、図書館の司書や、タレントスカウトのようなものになるわけです。
今、米国の地方紙の多くは財政難で地元の市議会の動きをカバーしきれていない。そういうところは一般読者に情報を集めてもらいウェブログで情報を発信してもらえばいい。
もちろんその読者が政治的に右か左の傾向があるかもしれない。もし右の傾向があれば、左の読者が出てきてウェブログで市議会の動きを報じ始めるでしょう。あらゆる思想の持ち主が情報発信することで全体のバランスが保たれるようになるわけです。
別の言い方をすれば、編集権をコミュニティーの中に分散するわけです。コミュニティーのメンバーに地元政治や文化活動により積極的に参加してもらう。また一般大衆は、手軽に参加できる手段があれば参加したいとも思っているもんなんです。
一般大衆が政治に無関心だといわれるのは、どうせ自分の意見が政治に影響を与えることはないとあきらめているからです。本当は意見を言いたい。世の中を変えたいと切望しています。
単純労働を仕事にする人の中には知的な活動をしたい人も多い。一般大衆の中にはいい知識や知恵がたくさん埋もれているんです。
そうした市民の中のジャーナリストを増やすことで新聞社は情報の質と量を高めることができる。そしてそうなれば、ろくに仕事をしないプロの記者を解雇すればいい。
ウェブログを積極的に利用することは新聞社にとって非常にプラスになるはずです。もし新聞社がウェブログを利用しなかったとしても、ウェブログを使った大衆ジャーナリズムの動きは止まらないでしょう。コミュニティーのウェブログの中に新聞に代わる中心的な役割を果たすウェブログが幾つか誕生し、どこに有益な情報があるかを示すようになるでしょう。中心的な役割のウェブログ同士は常に競争関係にあり、1社や1人がその地方の情報の門番の役割を独占するという事態は終わるでしょう。
―でもそういうウェブログで生計を立てるということは無理なのでは。プロのジャーナリストは存在しなくなるのですか。
アマチュアのジャーナリストが影響力を持つようになるのは事実。でもプロのジャーナリストが生き残れないわけではない。もしプロのジャーナリストや報道機関が情報の門番として情報の経路を独占するという現状を改め一般大衆に情報を発信する機会を積極的に与えれば、一般大衆は報道機関の仕事に対して引き続き代価を支払い続けるでしょう。
門番として情報を独占し、必要以上に問題を簡単な図式に置き換え、より多くの情報を必要とする読者に対しても十分な情報を与えないままでは、報道機関は一般大衆からよりかけ離れた存在になるでしょう。
久しぶりにこの記事を読み返してみて気づいたのだが、共同ブログ騒動をめぐる議論はワイナー氏が提唱するような参加型ジャーナリズムを既に形成しているのではなかろうか。
共同ブログ騒動でエディターの役割を果たしたのは「週刊!木村剛」だった。わたし自身はネットサーフィンの途中で共同ブログを見つけたのだが、それよりも早く第一報が「週刊!木村剛」に寄せられている。
「週刊!木村剛」が「ジャーナリストなら匿名性に逃げ込まないでほしい!」という書き込みを行った時点で、そのアクセス数の多さから「週刊!木村剛」が情報のハブとなり、エディターとなった。「週刊!木村剛」は多くのブロガーの意見を基に議論をさらに進化させ「頑張れ!くじけるな!小池編集長!」という書き込みを行った。この時点で、この問題に関心のある有力論客ブロガーのほとんどは「週刊!木村剛」にトラックバックを送っている。「週刊!木村剛」が情報ハブになっているため議論に参加するには、ここにトラックバックを送るしかない状態になっているわけだ。これがワイナー氏の言う参加型ジャーナリズムの1つの形かもしれない。
ほかにはどういう形が可能なのだろうか、とぼんやり考えていたら、米紙サンノゼ・マーキュリー・ニュースのダン・ギルモア記者のインタビュー記事(英文)を見つけた。同記者はこのほど、「We, the Media」という参加型ジャーナリズムの本を書いたばかり。その本に関して同記者がインタビューを受けている。その中で同記者は、「将来のジャーナリズムは今よりもよくなるのだろうか」と聞かれてこう答えている。
わたしには分からない。多分ヘルシンキかソウルに住む5歳くらいの少女が大きくなったら、その問いに答えられるかもしれない。ただ恐らく彼女にとってのジャーナリズムは、今日のわたしの理解を超えるようなものになっていることだろう
ジャーナリズムは、現時点でのわれわれの理解を超えるような形になるー。この一文がわたしの脳裏に焼き付いたまま離れないでいる。