2004年 08月 19日
プロとアマの垣根が崩れる中でジャーナリズムが失うものとは |
カトラーさんの「katolerのマーケティング言論」からもトラックバックをいただいた。カトラーさん、ありがとう。
カトラーさんは、いつも人と違った切り口で問題を分析してくれる。共同ブログ騒動でも、第一報は別にしても「週刊!木村剛」の議論のリード役はカトラーさんではなかったか、と思う。
さてトラックバックをいただいた「プロ、アマチュアの垣根の消失がもたらす「喪失」でもカトラーさんは、すばらしい議論を展開している。ぜひ本文を読んでいただきたい。
その中でわたし自身がおもしろいと思った論点が2つある。
1つは、朝日新聞OBの本郷さんの3人の客の比喩に触れている部分。
本郷さんは、ショーウインドーの中のカレーの値段を3人の客が当てようとしているところにやってきて裏から値札を取り出して示すのがジャーナリストである、と主張する。3人の客の言い分は、単なる当てずっぽであり、価値のある情報ではない。ネット上の発言は、3人の客の当てずっぽであり、ジャーナリズムではない、というのが本郷さんの主張だ。
これに対し、カトラーさんはカカクコムを例に出し、本郷さんの比喩に当てはめて参加型ジャーナリズム時代の到来を示している。
カカクコムは、価格比較サイトで、消費者の使用後の感想や、製品の最安値、最適価格をはじき出してくれる仕組みになっている。ジャーナリストが裏に回って値札を取り出してこなくても、消費者や販売店から寄せられた情報をうまくまとめ上げる仕組みができている。値段を探し出してみせることが本郷さんの言うジャーナリズムであるならば、カカクコムは一般市民の情報発信と技術革新が可能にした参加型ジャーナリズムである。
カカクコムをジャーナリズムと呼ぶことに抵抗がある人もいるだろうから、情報加工・販売業とでも呼ぼう。ジャーナリズムかどうかは別にして、こうした情報加工・販売業の多くを一時期、商業ジャーナリズムが担ってきたことは事実だ。そうした商業ジャーナリズムのビジネスが次々と参加型ジャーナリズムに浸食されている。カトラーさんが指摘するように、人材・転職、不動産の情報加工・販売業はリクルートなどがメディアビジネスとして成功させ、商業ジャーナリズムから奪っていった。金融ジャーナリズムの世界もそうだ。金融工学とコンピューターを駆使して生み出される情報は、ジャーナリストが集めてくる情報よりも価値あるものとして取り扱われることが多い。
名古屋の何千台というタクシーのワイパーにつけられたセンサーから無線で送られてくるデータを統合すると、どの地域で雨が降り出したかがリアルタイムで分かる。道路に設置されたセンサーから無線で送られてくるデータを集計すると、どの地域の渋滞がどの程度なのかがリアルタイムで分かるようになる。店舗や倉庫、商品につけられたICタグの情報を統合すると、売れ筋情報が分かる。経済全体でこの情報を統合すれば、タイムラグのある政府の統計発表を待たずに、今現在の景気動向をつかめるようになる。情報加工・販売ビジネスの多くが、商業ジャーナリズムの手を離れようとしているのだ。
こうした仕組みでカバーしきれない分野の情報や、権力者が隠そうとする情報を集めてくるのが、これからのジャーナリストの仕事になるのだろう。しかしそうした情報でさえ、内部告発という形でネット上にあふれかえっているではないか!
「技術革新が進む中で、究極のコンテンツビジネスの形はどのようなものになるのだろう。最近よく思い悩むことがある」ー。競合他社よりも情報システムを積極的に採用している某コンテンツプロバイダーの社長を取材した後で、この社長がポツリと漏らした言葉だ。
もう1つの論点は、こうした動きが加速する中でジャーナリズムは何を失うのか、というものだ。
「勝負の分かれ目ーメディアの生き残りに賭けた男たちの物語」(下村進著)というすばらしい本がある。金融に強い報道機関の戦いを描いたドキュメンタリーだ。手元にないので、記憶からの引用になるが、ロイター通信の日本支社の女性秘書をインタビューした下りがある。
この女性によると、かってのロイターの記者たちは、ほとんどいつも事務所を空けていた。そして事務所にいたと思えば、いつも冗談を言い合って笑っている。新聞記者っておもしろい人たちだなと思ったそうだ。ところが、いったん事件が発生すれば、彼らの目つきが変わった。ものすごいスピードとエネルギーでタイプライターに向かって仕事をした。この女性は、このときの事務所内に流れる張りつめた空気が好きだった、と語っている。
しかし金融報道にコンピューター化の波が押し寄せると、事務所の雰囲気はまったく別のものになった。記者よりも技術者のほうが多くなり、普通の会社になってしまったと、この女性は寂しそうに語っている。この女性は、古きよき時代のジャーナリズムの喪失を経験したわけだ。
ロイター通信のようにネットワークの世界、デジタルの世界に軸足を置く報道機関は、古きよき時代のジャーナリズムの喪失を早くから経験してきているのだ。その変化は、技術の変化と足並みをそろえたものであり、比較的ゆっくりとしたものだった。
一方、多くの報道機関は紙というアナログの世界に軸足を置く。アナログの世界では、変化の波はまだそれほど強く押し寄せていない。変化の波が押し寄せてきていることにさえ気づかない人も多い。
防波堤を積み上げて変化の波を防ごうとする人もいる。ところが波は次第に強くなる。そこでさらに防波堤を積み上げようとする。しかしいずれ防波堤で防げないほど波は大きく強くなる。そうなれば防波堤が一気に決壊する恐れだって十分にあるのだ。
防波堤を積み上げるより、変化の波を受け入れよう-。それがこのblogから商業ジャーナリズムへのメッセージである。
カトラーさんは、いつも人と違った切り口で問題を分析してくれる。共同ブログ騒動でも、第一報は別にしても「週刊!木村剛」の議論のリード役はカトラーさんではなかったか、と思う。
さてトラックバックをいただいた「プロ、アマチュアの垣根の消失がもたらす「喪失」でもカトラーさんは、すばらしい議論を展開している。ぜひ本文を読んでいただきたい。
その中でわたし自身がおもしろいと思った論点が2つある。
1つは、朝日新聞OBの本郷さんの3人の客の比喩に触れている部分。
本郷さんは、ショーウインドーの中のカレーの値段を3人の客が当てようとしているところにやってきて裏から値札を取り出して示すのがジャーナリストである、と主張する。3人の客の言い分は、単なる当てずっぽであり、価値のある情報ではない。ネット上の発言は、3人の客の当てずっぽであり、ジャーナリズムではない、というのが本郷さんの主張だ。
これに対し、カトラーさんはカカクコムを例に出し、本郷さんの比喩に当てはめて参加型ジャーナリズム時代の到来を示している。
カカクコムは、価格比較サイトで、消費者の使用後の感想や、製品の最安値、最適価格をはじき出してくれる仕組みになっている。ジャーナリストが裏に回って値札を取り出してこなくても、消費者や販売店から寄せられた情報をうまくまとめ上げる仕組みができている。値段を探し出してみせることが本郷さんの言うジャーナリズムであるならば、カカクコムは一般市民の情報発信と技術革新が可能にした参加型ジャーナリズムである。
カカクコムをジャーナリズムと呼ぶことに抵抗がある人もいるだろうから、情報加工・販売業とでも呼ぼう。ジャーナリズムかどうかは別にして、こうした情報加工・販売業の多くを一時期、商業ジャーナリズムが担ってきたことは事実だ。そうした商業ジャーナリズムのビジネスが次々と参加型ジャーナリズムに浸食されている。カトラーさんが指摘するように、人材・転職、不動産の情報加工・販売業はリクルートなどがメディアビジネスとして成功させ、商業ジャーナリズムから奪っていった。金融ジャーナリズムの世界もそうだ。金融工学とコンピューターを駆使して生み出される情報は、ジャーナリストが集めてくる情報よりも価値あるものとして取り扱われることが多い。
名古屋の何千台というタクシーのワイパーにつけられたセンサーから無線で送られてくるデータを統合すると、どの地域で雨が降り出したかがリアルタイムで分かる。道路に設置されたセンサーから無線で送られてくるデータを集計すると、どの地域の渋滞がどの程度なのかがリアルタイムで分かるようになる。店舗や倉庫、商品につけられたICタグの情報を統合すると、売れ筋情報が分かる。経済全体でこの情報を統合すれば、タイムラグのある政府の統計発表を待たずに、今現在の景気動向をつかめるようになる。情報加工・販売ビジネスの多くが、商業ジャーナリズムの手を離れようとしているのだ。
カカク・コムの成功で、価格の比較情報のように、それ自体は広告情報ではないが、やり方次第では記事コンテンツ情報と考えられていたものまでが、ビジネス化できるという可能性が生まれたのだ。今後、こうした動きはさらに加速し、プロが専有していたと思われた情報がアマチュアの手にわたり、両者の垣根は消えていくことだろう。新聞ジャーナリズムの最後の砦「オピニオン」の分野では、ブログが登場していることはいうまでもない。
こうした仕組みでカバーしきれない分野の情報や、権力者が隠そうとする情報を集めてくるのが、これからのジャーナリストの仕事になるのだろう。しかしそうした情報でさえ、内部告発という形でネット上にあふれかえっているではないか!
「技術革新が進む中で、究極のコンテンツビジネスの形はどのようなものになるのだろう。最近よく思い悩むことがある」ー。競合他社よりも情報システムを積極的に採用している某コンテンツプロバイダーの社長を取材した後で、この社長がポツリと漏らした言葉だ。
もう1つの論点は、こうした動きが加速する中でジャーナリズムは何を失うのか、というものだ。
かつて、スポーツや風俗産業の分野で産業化が進み、プロ、アマの垣根が消失した際には、「スポーツマンシップ」や「処女性」といった「大切なもの」をも喪うことになった。メディアやそのメディアが扱う情報の産業化が、止めようもなく進む世界にあって、今度は、私たちは一体何を喪わなければならないのだろうか。
この記事を書いているのは、共同通信ブログの休止騒動がきっかけとなっているが、ブロガーたちのコメントの嵐の海に沈没したまま沈黙を守っている小池氏の姿に、この「喪失」のイメージを重ねて見てしまうのは私だけだろうか。小池氏が育った古き良き時代の「ジャーナリズム」や「ジャーナリスト」が無惨な姿を晒すことになるのかと想像すると個人的には、やるせなさが募る。
「勝負の分かれ目ーメディアの生き残りに賭けた男たちの物語」(下村進著)というすばらしい本がある。金融に強い報道機関の戦いを描いたドキュメンタリーだ。手元にないので、記憶からの引用になるが、ロイター通信の日本支社の女性秘書をインタビューした下りがある。
この女性によると、かってのロイターの記者たちは、ほとんどいつも事務所を空けていた。そして事務所にいたと思えば、いつも冗談を言い合って笑っている。新聞記者っておもしろい人たちだなと思ったそうだ。ところが、いったん事件が発生すれば、彼らの目つきが変わった。ものすごいスピードとエネルギーでタイプライターに向かって仕事をした。この女性は、このときの事務所内に流れる張りつめた空気が好きだった、と語っている。
しかし金融報道にコンピューター化の波が押し寄せると、事務所の雰囲気はまったく別のものになった。記者よりも技術者のほうが多くなり、普通の会社になってしまったと、この女性は寂しそうに語っている。この女性は、古きよき時代のジャーナリズムの喪失を経験したわけだ。
ロイター通信のようにネットワークの世界、デジタルの世界に軸足を置く報道機関は、古きよき時代のジャーナリズムの喪失を早くから経験してきているのだ。その変化は、技術の変化と足並みをそろえたものであり、比較的ゆっくりとしたものだった。
一方、多くの報道機関は紙というアナログの世界に軸足を置く。アナログの世界では、変化の波はまだそれほど強く押し寄せていない。変化の波が押し寄せてきていることにさえ気づかない人も多い。
防波堤を積み上げて変化の波を防ごうとする人もいる。ところが波は次第に強くなる。そこでさらに防波堤を積み上げようとする。しかしいずれ防波堤で防げないほど波は大きく強くなる。そうなれば防波堤が一気に決壊する恐れだって十分にあるのだ。
防波堤を積み上げるより、変化の波を受け入れよう-。それがこのblogから商業ジャーナリズムへのメッセージである。
by tsuruaki_yukawa
| 2004-08-19 00:06
| 参加型ジャーナリズム