プロのジャーナリストはやはり必要 |
「参加型ジャーナリズムについて考える」「参加型ジャーナリズムについて考える2」「参加型ジャーナリズムについて考える4」
dawnさんは、参加型ジャーナリズムを否定していないものの、「参加型ジャーナリズムと云うのは難しい問題を孕んでいるように思われます」と書いている。というのはネット上のブロガーの意見の多くは検証材料を示しておらず、世論を間違った方向に扇動する恐れもあるからだ。
「自分が所属する集団、地域社会や国家の行く末を決める議論は公明・公正に行われるべきだ。こうした考えに賛同する人は、誰でもジャーナリスト」と云う定義であれば、おっしゃることは、その通りだと思います。しかし、ここで云う「公明・公正」は何に裏付けされているのか、私のあまりたいしたことのない知識で考えると、そこが問題のように感じるのです。当然ながら、報道には自らの見方が入ることは当然であり、そうでなければ、報道取材はしない訳です。私は調査報道と云うことを申し上げている訳ではなくて、「公明・公正」な議論の材料として報道を行うならば、その事実検証が必要ではないかと申し上げています(本郷さんのお書きになったものは例としては少々おかしいように感じます)。自らの視点と、それを補う取材・実感がなければ、その「公明・公正」と言われる主張そのものが揺らぐことになるのではないでしょうか。そのような道筋を確立すべく努力するのが、ジャーナリストではないかと私は感じるのです。裏付けのないものを熱狂的に支持した場合、どのようになるのか。このようなことはよくご存知だとは思いますが、「疎外と連帯」や「ビヒモス」などに書かれているような状況に再度陥るのではないのか、とても心配です。
この「ネットは新聞を殺すのかblog」の読者の大半は、実は新聞関係者である。従ってほとんどの読者はdawnさんの意見に共感を覚えると思う。
わたし自身もこの意見に賛成だ。
今後報道機関のビジネスモデルに津波が押し寄せるという思いはある。技術革新が進む中での究極の情報ビジネスの姿は想像さえできないが、参加型ジャーナリズムの時代が来るという予感もある。
だが、少なくとも予想できる将来において、プロのジャーナリストの存在意義はあるし、存在できると思う。
プロの能力がアマチュアに勝っているから、というわけではない。時間的な制約などの理由で、専門の仕事として取り組まなければ、得ることのできない情報というものがまだまだ多く存在するからだ(特権的立場の利用だというお叱りもあるかと思います)。
「We, the Media」という参加型ジャーナリズムの本を書いた米サンノゼ・マーキュリー・ニューズのダン・ギルモア記者も、自分のブログで「参加型ジャーナリズムの時代が来ようともプロのジャーナリストは存在できる」と主張している。この主張に対して多くのブロガーから批判の声が上がっているが、同記者はこの主張を変えようとはしていない。
近未来においては、参加型ジャーナリズムが一方的な熱狂的意見に傾こうとするときに、プロのジャーナリストたちが取材で得た事実を提示し議論を健全化してくれるという形がわたしの理想である。(そのためには、一日も早く商業ジャーナリズムがネット上の議論に参加するようになってほしいものだ)
商業ジャーナリズムに身を置く人間の身勝手な希望かもしれない。参加型ジャーナリズムの偏向を是正する仕組みというものが将来誕生するのかもしれない。
まだまだ何一つ自信を持って予測できない状態だが、少なくとも現状を見る限りジャーナリストの役割は今後も重要だと思う。