参加型ジャーナリズムの課題 |
この懸念に対し、わたしは「取材の裏付けを得たプロのジャーナリストの主張が、議論の健全化を可能にしてくれるのではないか」という考えを示した。
このほかにも、「プロのジャーナリストが出て来なくても、市民は十分に賢明だ」という意見もあるだろう。偏った議論に対しては「根拠を示せ」という議論が必ず起こる。「それに、先の大戦ではプロのジャーナリズムは議論を健全化するどころか軍事化の片棒をかついだではないか」という意見だ。
それとは別に、ブログが社会の言論空間を変えようとしているように、議論の偏向を是正してくれるような新しいコミュニケーションツールや、技術、仕組みがいずれ登場するだろう、と考える人もいると思う。
しかしプロがネットの言論空間にいつまでたっても参加してこなかったり、市民の情報発信の自浄作用が機能しなかったり、新しいツールが登場しなかったら、どうすればいいのだろう。参加型ジャーナリズムは、単なるポピュリズムになってしまう。
そうならないように、健全な議論が行われるような枠組み作りを考えておく必要があるのではなかろうか。
それが参加型ジャーナリズムの課題の1つだと思う。
もう一つは最初の課題にも関連するのだが、多くのブログの意見や情報の中から重要な要素をピックアップし1つの読み物にまとめ上げるエディター的な人間の確保だ。
わたしのお気に入りブログ「fireside chat」はエディターを「読み手」という言葉で表現し、この課題について次のように述べている。
参加型ジャーナリズムでは、デマを排除し、優れた書き込みをクローズアップするプロセスをどうビルトインさせるかが問題となる。
その観点から、優れた「書き手」の存在が前提であることは言を俟たないが、優れた「読み手」が必要であると考える。
これまで新聞社においては、デスクと整理部とが出稿記事の読み手であり、ニュースバリューを評価していた。
ブログジャーナリズムでは、読み手の主力は読者サイドに移るのだろう。読み手は書き込みをその行間まで読み取り評価するとともに、他の書き込みとの関連性を考える「繋ぎ手」としての機能も求められるだろう。
(中略)
参加型ジャーナリズムの成否を決めるのは情報発信が少ないゆえに埋没しがちな「読み手」をどう発掘し、確保するかではないだろうか。
また、「読み手」が報道機関の内部にいるのか、一般読者の中に求めるのかは、そのジャーナリズムのビジネスモデルそのものの枠組みを決定することになると思う。当然、私は後者のほうがインターネットの性格にフィットし、ポテンシャルも大きいと考えている。
もともと情報発信が少ない「エディター的ブロガー」を発掘する仕組みを作ることが2つ目の課題だ、ということだ。Fireside Chatさんは、一般ブロガーの中にエディターブロガーを見つけるほうがインターネットの特性に合っているし、そのほうがジャーナリズムとしての力が大きくなると主張している。
何度も言うが、参加型ジャーナリズムの究極の姿をわたしはまだ予想しえていない。予想できないものの、最終的には、市民エディターが力を発揮するようになるのかもしれない。確かにそんな気はする。
しかし、中期的には「エディター」の仕事は報道機関が担うようになるのではないか、と考えている。
共同ブログ騒動の際に、数多くのブロガーの意見を集約し、「エディター」役を果たしたのは「週刊!木村剛」だったと思っている。なぜ木村さんが「エディター」になったのか。それはブロガーの意見を集約する能力が木村さんにあったというということもあるが、木村さんが有名人でアクセスが集まりやすかったという理由があるのではなかろうか。
これまでは実社会とは違うところにネットという空間が存在していたような感じがあるが、これからはネットと実社会が融合してくるだろう。現に、実社会の有名人はネットでも有名人となり、アクセスを集めている。
もし報道機関が一方通行の情報発信を改め、ブログ的な双方向の情報発信に乗り出してくれば、報道機関が「エディター」の役割を果たす可能性は十分にあると思う。(というかそうあってほしい。報道関係者としての身勝手な希望かもしれません)
わたしの希望が通れば、取材の裏づけで議論を健全化するのは商業ジャーナリズムだし、エディターの役割を果たすのも商業ジャーナリズムということになる。
しかし報道機関の実際の動きを見ていると、ネットという新しい言論空間の中で重要な役割を果たす絶好の機会をみすみす見逃すのではないか、と心配になってくるのも事実だ。
一般ブロガーの中からエディターを発掘する仕組みというものも、考えておく必要がありそうだ。