2006年 01月 07日
コメント欄を荒らす人間の悲しさ |
ネガティブなコメントはその後も時折寄せられた。アクセス数が増えるに従って、いろいろなタイプの読者が増えた。中には、繰り返しからんでくる読者もいた。どこをどう読めばそのような受け止め方ができるのだろうと思うほど、ピント外れな批判を繰り返してくる人もいた。誹謗中傷になるかならないかのギリギりの表現でわたしを批判し続ける人もいた。
触れてほしくない自分の弱さを的確に突いてくる批判もある。直視することがつらくても、そうした的を得た批判は、できるだけ謙虚に受け止めたいと思っている。しかし多くの批判は誤解をベースにしたものだった。誤解を解いてもらいたいと思い、ネガティブなコメントに対してわたしの真意を説明するコメントを繰り返した。しかしわたしのそのコメントさえ誤解されることがほとんどだった。
恐らくそうした人たちは、コメント欄を荒らすこと自体が目的なのだろう。建設的な議論をしたいわけではない。議論を通じて何かを学ぼうという思いはなく、相手をやり込めて優越感に浸りたいだけなのだろう。
わたしを攻撃する彼らの主張の根底に、鬱積された感情が見え隠れすることがある。マスコミや、エスタブリッシュメントに対する怒り。ネット上の新参者であるブロガーが脚光を浴びていることに対する古くからのネットユーザーの怒り。そういった感情だ。
わたし自身、日本で三流大学の入試に失敗し30代半ばまで米国でアルバイト生活を続けていた人間だ。エスタブリッシュメント、エリートと呼ばれる層とは、ほど遠い。またシリコンバレーに住んでいたこともあり、インターネットの歩んできた道をリアルタイムで経験してきた。ブログだけを礼賛するつもりはさらさらない。いずれそう遠くない将来にブログを超えるツールが当然登場するものだと思っている。
感情をぶつける相手を間違っているのではないか、と思うことがしばしばあった。わたしにではなく、勝手に作り上げたわたしのイメージに対する怒りをぶつけているのではないか。そんなふうに思えて仕方がなかった。
若いころはかっとすることも多かったわたしだが、最近は怒りより悲しみが先にくる。わたしがいったい何をしたというのだろう。どうしてこの人たちに、このようなひどい言葉を浴びせられなければならないのだろう。面と向かっては何も言えないのに、匿名であれば相手を罵倒することで快感を得ようとする。人間とはなんて悲しい生き物なんだろう、と気持ちが暗くなることが多かった。
マスコミは読者と対話しなければならない。そう主張してきたのは他ならぬ自分自身だ。2ちゃんねるもまた新しいジャーナリズムの1つの形である、と主張し続けてきたのもわたしだ。それでも対話から逃げだしたくなることがあった。罵詈雑言から目を背けたくなった。このままでは罵詈雑言が発する負のエネルギーに心が蝕まれる気がした。
こうしたネガティブなコメントにどう対処すればいいのだろう。
理想的なのは、無視することだ。可能であるならば無視するのがいい。そういう相手を変に論破してしまうと、そのことを逆恨みし根に持つかもしれない。しかし無視するには人間的な強さが必要だ。わたしは、残念ながら平然と無視できる強い人間ではない。心ないコメントに傷つくこともあった。
コメント欄を閉鎖するという手もある。コメント欄は、2ちゃんねるのような掲示板同様に、ふらっと立ち寄って好き勝手書くことができる。よって無責任な心ないコメントで荒れることもある。その点、トラックバックは荒れることが少ない。トラックバックするには、自分自身のブログを持っていなければならない。自分のブログに他人の悪口ばかり書きたい人はそう多くない。これがトラックバックを使ったブログ間の議論が比較的健全である理由の1つだと思う。実際に有名なブログの中には、コメント欄を閉鎖しトラックバックしか受け付けないようにしているものが幾つかある。
またブログの機能を使って特定のコメント発信者からのコメント書き込みを拒否したり、心ないコメントを削除する手もある。ただ削除することで「どうして削除するんだ。議論から逃げるのか。卑怯者め」との反発を買う恐れもある。ブログの中には目立つところに「自由な議論のためにコメント欄を解放していますが、ネット上の議論にもマナーは必要だと思います。罵詈雑言や誹謗中傷などのマナー違反のコメントは削除させていただきますのでご了承ください」という但し書きを掲載しているものがある。非常にうまいやり方だと思う。これならマナー違反のコメントを削除しても、クレームの嵐に発展しにくいのではなかろうか。
執拗にからんでくる人とは電話で話してみたり、実際に会ってみてもいいと思う。ネット上の文章という1つの小さな断面だけでイメージを膨らませ、そのイメージに対して感情をぶつけてくるのだから、実際に会って人間の全体像を見てもらって誤解を解くのが効果的かもしれない。
今後はどうなるのだろ。ネットはいつまでも言論の無法地帯であり続けるのだろうか。ネットをあまり利用しない人たちがネットに対して不信感、嫌悪感を抱くのは、ネット上に罵詈雑言などのネガティブな言説が横行しているからだ。ネットはすばらしい可能性を持っている媒体なのに、このアンダーグラウンドのイメージのせいで可能性が制限されているのではなかろうか。
恐らく今後は、ネネガティブな書き込みをする人たちを名誉毀損で訴えるケースが増えてくるのではないかと思っている。そうなれば、マナーが改善されるようになるかもしれない。
またマナーある議論を促進する仕組みも増えてくることだろう。グリーやミクシィなどの代表されるソーシャル・ネットワーキング(SNS)という仕組みは、人間関係をベースにしたコミュニケーションツール。友人関係を結んだ人でなければ日記(ブログ)を読めないように設定できるので、広く公開されているブログに比べて荒れることが少ないといわれる。安心で安全なネットの言論空間に対するニーズがある限り、SNSのような新しい仕組みが次々と登場してくるのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
触れてほしくない自分の弱さを的確に突いてくる批判もある。直視することがつらくても、そうした的を得た批判は、できるだけ謙虚に受け止めたいと思っている。しかし多くの批判は誤解をベースにしたものだった。誤解を解いてもらいたいと思い、ネガティブなコメントに対してわたしの真意を説明するコメントを繰り返した。しかしわたしのそのコメントさえ誤解されることがほとんどだった。
恐らくそうした人たちは、コメント欄を荒らすこと自体が目的なのだろう。建設的な議論をしたいわけではない。議論を通じて何かを学ぼうという思いはなく、相手をやり込めて優越感に浸りたいだけなのだろう。
わたしを攻撃する彼らの主張の根底に、鬱積された感情が見え隠れすることがある。マスコミや、エスタブリッシュメントに対する怒り。ネット上の新参者であるブロガーが脚光を浴びていることに対する古くからのネットユーザーの怒り。そういった感情だ。
わたし自身、日本で三流大学の入試に失敗し30代半ばまで米国でアルバイト生活を続けていた人間だ。エスタブリッシュメント、エリートと呼ばれる層とは、ほど遠い。またシリコンバレーに住んでいたこともあり、インターネットの歩んできた道をリアルタイムで経験してきた。ブログだけを礼賛するつもりはさらさらない。いずれそう遠くない将来にブログを超えるツールが当然登場するものだと思っている。
感情をぶつける相手を間違っているのではないか、と思うことがしばしばあった。わたしにではなく、勝手に作り上げたわたしのイメージに対する怒りをぶつけているのではないか。そんなふうに思えて仕方がなかった。
若いころはかっとすることも多かったわたしだが、最近は怒りより悲しみが先にくる。わたしがいったい何をしたというのだろう。どうしてこの人たちに、このようなひどい言葉を浴びせられなければならないのだろう。面と向かっては何も言えないのに、匿名であれば相手を罵倒することで快感を得ようとする。人間とはなんて悲しい生き物なんだろう、と気持ちが暗くなることが多かった。
マスコミは読者と対話しなければならない。そう主張してきたのは他ならぬ自分自身だ。2ちゃんねるもまた新しいジャーナリズムの1つの形である、と主張し続けてきたのもわたしだ。それでも対話から逃げだしたくなることがあった。罵詈雑言から目を背けたくなった。このままでは罵詈雑言が発する負のエネルギーに心が蝕まれる気がした。
こうしたネガティブなコメントにどう対処すればいいのだろう。
理想的なのは、無視することだ。可能であるならば無視するのがいい。そういう相手を変に論破してしまうと、そのことを逆恨みし根に持つかもしれない。しかし無視するには人間的な強さが必要だ。わたしは、残念ながら平然と無視できる強い人間ではない。心ないコメントに傷つくこともあった。
コメント欄を閉鎖するという手もある。コメント欄は、2ちゃんねるのような掲示板同様に、ふらっと立ち寄って好き勝手書くことができる。よって無責任な心ないコメントで荒れることもある。その点、トラックバックは荒れることが少ない。トラックバックするには、自分自身のブログを持っていなければならない。自分のブログに他人の悪口ばかり書きたい人はそう多くない。これがトラックバックを使ったブログ間の議論が比較的健全である理由の1つだと思う。実際に有名なブログの中には、コメント欄を閉鎖しトラックバックしか受け付けないようにしているものが幾つかある。
またブログの機能を使って特定のコメント発信者からのコメント書き込みを拒否したり、心ないコメントを削除する手もある。ただ削除することで「どうして削除するんだ。議論から逃げるのか。卑怯者め」との反発を買う恐れもある。ブログの中には目立つところに「自由な議論のためにコメント欄を解放していますが、ネット上の議論にもマナーは必要だと思います。罵詈雑言や誹謗中傷などのマナー違反のコメントは削除させていただきますのでご了承ください」という但し書きを掲載しているものがある。非常にうまいやり方だと思う。これならマナー違反のコメントを削除しても、クレームの嵐に発展しにくいのではなかろうか。
執拗にからんでくる人とは電話で話してみたり、実際に会ってみてもいいと思う。ネット上の文章という1つの小さな断面だけでイメージを膨らませ、そのイメージに対して感情をぶつけてくるのだから、実際に会って人間の全体像を見てもらって誤解を解くのが効果的かもしれない。
今後はどうなるのだろ。ネットはいつまでも言論の無法地帯であり続けるのだろうか。ネットをあまり利用しない人たちがネットに対して不信感、嫌悪感を抱くのは、ネット上に罵詈雑言などのネガティブな言説が横行しているからだ。ネットはすばらしい可能性を持っている媒体なのに、このアンダーグラウンドのイメージのせいで可能性が制限されているのではなかろうか。
恐らく今後は、ネネガティブな書き込みをする人たちを名誉毀損で訴えるケースが増えてくるのではないかと思っている。そうなれば、マナーが改善されるようになるかもしれない。
またマナーある議論を促進する仕組みも増えてくることだろう。グリーやミクシィなどの代表されるソーシャル・ネットワーキング(SNS)という仕組みは、人間関係をベースにしたコミュニケーションツール。友人関係を結んだ人でなければ日記(ブログ)を読めないように設定できるので、広く公開されているブログに比べて荒れることが少ないといわれる。安心で安全なネットの言論空間に対するニーズがある限り、SNSのような新しい仕組みが次々と登場してくるのだと思う。
著者注:本として出版するための原稿ですが、未完成なものです。間違いの指摘やご意見をいただければ幸いです。「過去エントリをそのまま記録として残すべきだ」「細かな修正を加えるたびにPINGが飛び、RSSリーダーにほぼ同じ原稿が表示されるので困る」などという意見をいただきましたので、ご意見、ご指摘をいただいても、エントリ自体を修正しないことにしています。ですが、建設的なご指摘、ご意見は、最終原稿に必ず反映させるつもりです。繰り返しになりますが、本エントリは未完成原稿です。引用を希望される場合は、脚注にある原典に当たられることをお勧めします。
参考「本を書きます」
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。
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by tsuruaki_yukawa
| 2006-01-07 05:53
| 本の原稿